「令和」と決まった新元号の5月1日に約200年ぶりとなる天皇の「譲位」が行なわれます。
明仁天皇は退位にあたって何を言い残し、徳仁新天皇は即位にあたって何を告げ知らせるのでしょう?
天皇の言葉はわかりやすいようで、実は、奥が深いもの。
過去の発言や歴史を踏まえなくては、その真意を読み解くことができません。
辻田真佐憲さんの新刊『天皇のお言葉~明治・大正・昭和・天皇~』は、この稀有な歴史的機会を冷静に立ち会うための必読書です。
天皇よりも政府の首脳の力が強かった明治時代。ただ、いつもお飾りだったわけではありません。
「速かに辞せしむべし」(明治三一・一八九八年)
一八九八年六月、第一次大隈重信内閣が成立した。板垣退助を内相に擁する、いわゆる隈板(わいはん)内閣だった。記念すべき、日本初の政党内閣でもあった。天皇は、その瓦解に少しばかり関与している。
隈板内閣は、山県有朋やその官僚勢力に敵視された。議会無視を決め込む超然主義者たちにとって、政党政治ほど目障りなものはなかった。かれらは虎視眈々とその失態や失言を狙った。
その折も折の八月、尾崎行雄文相が帝国教育会の茶話会で、アメリカの共和制に言及した。のちに公開された速記録にはこうある。
「日本に於ては共和政治を行ふ気遣はない。例へ千万年を経るも共和政治を行ふと云ふことはないが、説明の便利の為に、日本に仮に共和政治ありと云ふ夢を見たと仮定せられよ。恐らく三井三菱は大統領の候補者になるであらう」
これを読む限り、財閥の政治壟断(ろうだん)や金権政治を危惧する内容にすぎない。にもかかわらず、山県に近い『東京日日新聞』や『京華日報』がここぞとばかりに嚙み付いた。尾崎が天皇制廃止と、共和制導入を主張したというのだ。速記録の公開もどこ吹く風、「不臣」「乱臣」「不敬」などと攻撃の手を緩めなかった。
これだけであれば、倒閣にまではいたらなかっただろう。世論も尾崎に同情的だった。しかし、ここで与党・憲政党内の派閥対立が影響した。憲政党は大隈の進歩党と板垣の自由党が合同した政党だが、この両派の関係はかならずしもよくなかった。そのため、旧自由党系は文相のポストを得ようとして、旧進歩党系の尾崎を辞めさせようと考えたのである。こうして問題は大きくなった。
一〇月二一日、板垣は天皇に謁見して尾崎を弾劾した。天皇も国論の沸騰を憂慮して、翌日、侍従職幹事の岩倉具定を通じて大隈にこう伝えた。
行雄共和云々の演説を為し、世論の囂々を来す。将来如何なる難事を惹起するや測り難し。此の如き大臣は信任し難し。速かに辞せしむべし。
なんと天皇は、尾崎の早期罷免を求めたのである。大隈は岩倉を通じて弁解したが、その意向は変わらなかった。
今回のことは文部大臣に限りたることなり。他の大臣に関係なし。汝之れを伝へて一同を諭し、而して後行雄をして辞表を提出せしむべし。
この言葉をみてもわかるように、天皇は倒閣までは望んでいなかった。だが、尾崎の辞任で旧進歩党系と旧自由党系の対立が激しくなり、憲政党は分裂。第一次大隈内閣も同月末に総辞職してしまった。
天皇の発言は、たしかに板垣の弾劾を受けてのものだった。ただ、天皇はたんなるお飾りではなく、ときに政治的な発言も辞さなかった。その証拠として、この言葉は記憶に値する。われわれは似たような事例を、昭和初期にも目撃するだろう。
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続きは、『天皇のお言葉~明治・大正・昭和・平成~』をご覧ください。
天皇のお言葉
明治・大正・昭和・平成の天皇たちは何を語ってきたのか? 250の発言から読み解く知れれざる日本の近現代史。