歴史の古い京都には、せつない物語がいくつも残っています。綺麗、楽しい、美味しいだけではない、「物語で辿る京都」が書かれた『せつない京都』(柏井壽著・幻冬舎新書)から、嵯峨野の悲恋の寺、「滝口寺」の回を再度紹介。物語は、訪れた場所をより味わい深いものにしてくれますが、なにより、人を想い合うこの気持ちが、時を超えて胸に響いてくるのかもしれません。
身分違いの恋の行く末は
さてこの「祇王寺」とすぐ隣り合って建っている「滝口寺」にもまた、悲恋の物語が伝わっています。
「祇王寺」を悲恋と結びつけるのは少々無理があったかもしれません。何しろ時の権力者がいっときの思いを寄せただけのことで、祇王が清盛に恋心を抱いていたかどうかといえば、大きな疑問符が付きますからね。
そこへいくと、この「滝口寺」のほうは間違いなく悲恋です。
「祇王寺」の侘(わ)びた山門を出て、すぐ横の狭い石段を上っていくと、山門と呼ぶには少々侘しい入口があります。お隣の「祇王寺」に比べると寂れた印象があるのは否めません。
そしてその入口付近には、拝観料を払わずに入ったり、写真を撮ったりすることをとがめる注意書きが掲示されています。ただ撮りを目論(もくろ)む不届きものが多いのでしょう。困ったことです。
ちゃんと拝観料を納めて境内に入ると、道しるべのような案内板が目に入ります。そこには、〈右 新田義貞公首塚(にったよしさだこうくびづか 左 勾当内侍供養塔(こうとうのないしくようとう)〉と矢印とともに記されています。
新田義貞といえば、足利尊氏(あしかがたかうじ)と一緒に鎌倉幕府を滅ぼしながらも、時代の波にもてあそばれ、越前国(えちぜんのくに)で思いがけず命を落とした武将です。その妻だった勾当内侍は、都に晒(さら)されていた夫の首を持ち去り、この地に葬ったのだそうです。武士の妻の鑑(かがみ)といっていいでしょう。ほとんど知られていませんが、「滝口寺」の、もうひとつの悲恋物語です。
さて悲恋の本命、というのもおかしな言い方かもしれませんが、寺の名前にもなっている滝口の話に入りましょう。
のちに滝口入道(にゅうどう)を名乗るようになった斎藤時頼(さいとうときより)は、平重盛(たいらのしげもり)に仕えていました。そして平重盛の妹である建礼門院(けんれいもんいん)に仕えていた横笛という女性と、恋に落ちてしまうのです。
ところが時頼の父は、身分の違う女性に恋をした息子を厳しく叱責し、ふたりを引き裂いてしまいます。
ここまでなら今の時代にもなくはない話でしょうが、ここから先がちょっと意外な展開になります。
小説家としては、ふたりには駆け落ちしていただきたい。もしくは父に反逆して父を失脚させるくらいの男気を見せてほしいものです。
ところがこの時頼は深く反省し、出家してしまうのですから、どうにも絵にならない男です。恋人にすごすごと退散されてしまったのでは、横笛も立つ瀬がありませんよね。
それでも健気(けなげ)な横笛は、風の噂を耳にして、時頼が修行していると思しき、当時は〈三宝寺(さんぽうじ)〉と呼ばれていたこの寺を訪ねます。〈三宝寺〉はどうやら、〈往生院(おうじょういん)〉のなかにあったようですから、“平家物語つながり”だけでなく、地続きの話でもあります。
寺にやってきた横笛は、時頼にひと目だけでも会わせてほしいと、応対に出てきた僧侶に懇願します。それを聞いて、滝口入道と呼ばれるようになっていた時頼はびっくりします。
襖(ふすま)のすき間からのぞくと、そこにはやつれきった顔の横笛が立っています。出家していなければ、すぐにでも抱きしめたのでしょうが、ほかの僧侶の手前、そうもいきません。仲間の僧侶に頼んで不在を告げさせます。そんな人物はここにはいないと。
訪ねてきた横笛も、それを門前払いした時頼も、どちらも辛かったでしょうね。
楚々(そそ)とした嵯峨野の竹林にふさわしい、平家物語ゆかりの悲恋の舞台。「祇王寺」より「滝口寺」をおすすめするわけがお分かりいただけたでしょうか。
(続く)
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このたび、京都にまつわるベストセラーを続々出されている柏井壽さんの新刊が、幻冬舎新書より発売になりました!
タイトルは『せつない京都』。
京都といえば、雅で煌びやかなイメージが強いかもしれません。
しかしその反面、寂しさや侘しさを内包しているのが、京都という街です。
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センチメンタルな古都を味わう、上級者のための京都たそがれ案内である『せつない京都』より、一部公開いたします。