忘れられない恋を誰かに語りたくなることがありませんか? その相手にバー店主は時々選ばれるようです。バー店主がカウンターで語られた恋を書き留めた小説『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』より、今週のお話。
* * *
一月、東京にも雪が降る日がある。渋谷の雪はあっと言う間に人々にかき消されてしまうが、私のバーは少し裏手にあるためしばらくの間は雪見酒が楽しめる。
こんな雪の夜には、はかない音楽を聞きたくなり、レコード棚の前でしばらく考えた。
クロディーヌ・ロンジェというアメリカで女優、歌手として活躍したフランス人女性がいる。彼女がまだ無名の頃、ダンサーとして渡米し、ラスヴェガスで運転していた時、その車が故障で立ち往生し困っていたところに声をかけたのが、アメリカの大物歌手、アンディ・ウイリアムスだった。
その後、クロディーヌはアンディの助けでアメリカで女優、歌手として大活躍し、二人は結婚した。アメリカ、ラスヴェガスらしい映画のような良い話だ。
そんなクロディーヌが『ナッシング・トゥ・ルーズ』という切ないメロディの曲を歌っている。「失うものはない。でも得るものはたくさんある。もし愛がここにずっととどまってくれれば」という意味の歌だ。
そのクロディーヌのアルバムに針を置くと、ブルーの厚手のコートを着た三十代後半くらいの女性が扉を開けて入ってきた。雪の中を傘もささずに歩いてきたのだろう。ダッフルコートに降り積もった雪を入り口で払い落としている。
私がコートを脱がせると、中の白いセーターが、ほんのり上気した白い肌の彼女にとてもよく似合っていた。つぶらな瞳は真っ黒で、ひきこまれそうな魅力があった。
「雪、強くなってきましたか?」と聞くと、彼女は柔らかい声で「そうですね。たぶんこれからどんどん積もりそうです」と答えた。
彼女はカウンターの一番端の席に座ると、髪の毛を耳にかけながら「私、雪が降る寒い夜に、暖かいバーで冷えた白ワインを飲むのが大好きなんです。でも白ワインを注文する時、何か飲みやすいものとしか言えなくて。どういう風に伝えれば自分が好きなワインが出てきますか?」と聞く。
「ワインは本当に種類がたくさんあるから難しいですよね。一番いいのは以前飲んでおいしいと感じたワインの銘柄を伝えていただくことですよ。私たちはプロですから、お客様が飲んでおいしかった銘柄をうかがえば、それに似た味わいのワインをお出しできます」
「そうですか。でもワインの名前ってあまり覚えられなくて」
「携帯電話でラベルの写真を撮っておいて、『これがおいしかった』って見せていただいても大丈夫ですよ」
「なるほど。ではそうではないもっとスマートな頼み方ってありますか?」
「好きなブドウの品種を言っていただけると助かりますね」
「ブドウの品種ですか」
「例えば今日でしたら、雪にぴったりの白ワインを考えてみると、ちょっと白桃の香りがするリースリングなんてどうでしょうか。少し甘さを感じますが柔らかい酸味があるので桃をそのまま食べているみたいで、雪の夜にはぴったりですよ。そしてリースリングを覚えたら、次はシャルドネを覚えて、という感じで自分の好きなブドウの品種を探すのがいいかと思います」
彼女が「じゃあそのリースリングをください」と言ったので、私はアルザスのリースリングを開けた。
香りを楽しみやすいように私は大ぶりのワイングラスに注ぎ、彼女の前に出した。
彼女はリースリングに口をつけると、「ああ、本当だ。これは桃ですね。気品があるのに、チャーミングなところもあって、こんな女性になりたいですね」と言いながら話を始めた。
「彼とはよくあるダブル不倫だったんです。彼には中学生の娘さんが一人いて、私には小学校の高学年の息子が一人います。
私たちが知り合ったのは仕事を通じてでした。美術館のキュレーターだった彼が、【思い出の中の愛する女性だけを描き続けた画家】という企画を立てたんです。その展示会を紹介する記事を私が自社のホームページに書いたのがきっかけでした。
キュレーターの彼とは取材で会って、その後は何度かメールでやり取りしてそれで関係は終わるはずだったのですが、お互いなんとなく気になって、【いい記事も出来たし、お疲れさまってことでちょっと食事でもいかがですか】なんてメールが届いて、私も【いいですね】って軽い気持ちで返信しました。
広尾の小さいビストロで、鴨のコンフィに南フランスの赤ワインをあわせて、私たちはたくさん喋りました。私はこんなに自分のことを誰かに喋ったことは初めてでした。彼も自分のことを思う存分に喋りました。
仕事で会ったはずなのに、私たちには後から後から話したいことがとどまることなくあふれてきました。何を話しても楽しくて、私は広尾の小さいビストロでずっとずっとこのまま朝まで喋っていたいと思いました。
その夜、ずっと話しながら、お互いに二人は完全に出会うタイミングを間違えたってわかったんです」
「二人が結婚する前に出会ってたら良かったのにってことですか?」
「はい。でもこういう話ってマスターはよく聞いていますよね。私たちも今、お互いの夫婦間が倦怠期でちょっと刺激的な恋愛がしたいだけなんじゃないか、なんてことも考えたんです」
「でも違ったんですね」
「はい。これは本物の恋だとお互い確信しました。笑いのポイント、完全に息があった会話、食べる物や飲み物の好み、好きな音楽や作家まで何から何まで同じ気持ちだったんです。セックスどころかまだ手をつないでもいないのに深いところでわかりあえました。この人が本当の運命の人なんだってお互いが感じあっているのがはっきりとわかりました」
「どうされたんですか?」
「二回目に飲んだ時に私たちは自然とホテルに行ってしまいました。やっぱり、セックスも素晴らしかったんです。終わった後は、ほとんど呆然としてしまって、本当に相性がいい人に出会うと、こんなに快感が大きいんだと驚きました。彼もたぶんそんな風に感じていたんだと思います。私たちはしばらく抱き合ったままで今後のことを話し合いました。どちらも自分の家庭は壊したくないし、子供のことを第一に考えたい。
中途半端にこんな感じで会っていると、いつかお互いの家族に浮気がバレてしまうことになる、と。
こういうことにしました。その二回目に飲んだ日はちょうど桜が咲き始めた日でした。
これから一年間だけこっそり付き合おう。お花見や、鎌倉の紫陽花を見に行くことや、夏にプールがある都心のホテルで一日中過ごすこと、秋の紅葉を箱根に見に行くことや、クリスマス前後においしいディナーを食べること、二月に東京の雪の中を一緒に歩くこと。そんなことを二人だけで経験しましょうと」
「一年間だけ付き合うって決めたんですね」
「はい。お互い結婚しているのに『付き合う』って変な表現ですが、その言葉が一番しっくりくる感じがしたんです。ええ、本当に二人が恋人同士になるという気持ちでした」
「どうして一年間だったんですか?」
「まず期間を決めないとずっとずるずると会ってしまうというのがわかってたし、例えばその期間が一月から六月までの半年だと『クリスマスも会いたかったな』ってずっと後悔するだろうなって思ったんです。普通の恋人たちがするようなことを全部経験して、それを思い出にして心にそっとしまって、別れようって考えたんです」
「思い出を作るためだったんですね」
「あと、こういう不倫関係の人たちはメールを消しているのはご存じですか?」
「そういう話、よく聞きますね」
「私たちはメールを消したくないねって話し合って、クローズドなSNSを使うことにしたんです。
今日あったことを普通に書いたり、この間のデートが楽しかったことを書いたり、二人で撮った写真もそこだけに保存したりして、二人だけの恋の巣にしました」
「デートはたくさんしましたか?」
「お互い完全に一日が自由になるという日があまりなくて、会えるのは一ヵ月に一回、あるいは二ヵ月に一回くらいでした。二人で最初に話し合ったように、鎌倉に紫陽花を見に行きましたし、暑い夏の日、一日中ずっとニューオータニのプールと快適な部屋でシャンパーニュを飲んだりもしました」
「雪が降る東京は二人で歩いたんですか?」
「歩きました。私が神楽坂の和食屋さんに行こうって言ったんです。そのお店でおいしいお鍋を食べた帰りに雪が降ってきました。彼が坂で雪に足をとられそうになって。私、東北出身だから雪道の歩き方を彼に教えてあげました」
「一年って決めたということは、別れはいつだったんですか?」
「桜が咲き始めた頃に付き合い始めたから、次の春の桜が開花宣言をしたらお別れにしようって決めました」
「桜の開花宣言ですか」
「はい。その雪が降った日のデートのあたりから、そろそろ終わりだねって二人で話し合いました。
春が近くなると街では桜の話ばかり始めますよね。私も近所の桜の木を見て、ああもう蕾が大きくなってピンク色になっちゃったなあって思いました。本当に桜が咲いてしまうんだ。二人がもう二度と会えない日がやってくるんだと思いました。
沖縄で開花宣言がありました。
東京で開花宣言があったら、SNSにはもう一切何も書き込まないし、お互いに絶対にメールもしないって決めました」
「切ないですね」
「もうそろそろだね。その前に一度だけ会おうかと彼がSNSに書いた次の日、あっけなく東京で開花宣言がありました。それからは約束通り一度も会ってないし、連絡もしていません。
後悔はしていません。素敵な一年間でした。
今は私はいいお母さん、いい妻に戻ったし、彼もいいお父さん、いい夫に戻ったはずです」
「東京の街でいつかすれ違う可能性ってありますか?」
「うーん、ないんじゃないかなあ。行動範囲がちょっと違うんです」
「そうですか。いい思い出になりましたか?」
「はい。私がお婆ちゃんになって死ぬ前に、もう二度と会えないあの人との恋を思い出すはずです」
彼女はそう言うと、リースリングのグラスをくるりと回して、少し香りをとり口にふくんだ。
外には雪が積もり始め、クロディーヌが「失うものは何もない」と歌っていた。
* * *
続きは、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』をご覧ください。
恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる
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