大手投資ファンドの現社長が激務の合間を縫って、自ら書き下ろしたノンフィクション小説『儲けない勇気』が今、ビジネスマンの間で話題です。
物語の主人公は、著者の父であり、長期投資のパイオニア・澤上篤人。
当時の常識ではありえなかった、一般家庭のための「独立系直販投信」の設立に奮闘する澤上のキャラクターは、やはり魅力的なまでに破天荒。息子にしか書けないであろうエピソードも満載です。一人の男の熱い信念が周囲を巻き込み、不可能だと思われた「理想」を「現実」に変えていくそのプロセスは、投資というジャンルを超えて、仕事をする全ての人の心をうつ作品です。
金融庁の規制や常識という壁、ITバブル崩壊や9.
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大蔵省への日参
「あなた、何しに来たの?」
投資信託ビジネスの認可申請に必要な書類を携え、大蔵(現・財務)省証券課を訪問した澤上を待っていたのは係官の驚きの声だった。
日本版金融ビッグバン法案が施行となったとはいえ、これほどにも早く認可申請者が現れるとは大蔵省も想像をしていなかっただろう。しかも大きな顧客基盤を持つ有力地銀でもなければ、知名度のある大企業でもない。書類を持ち込んできたのは、無名のさわかみ投資顧問という一介の投資助言業者なのである。
澤上は真剣だった。想定外という表情の係官に、「投資助言業を始めて二年半、我々は営業を一切せず実績と口コミだけで数百件の顧客口座を獲得しました。投信ビジネスに進出すればもっと広い裾野から個人投資家を集められるはずです」と、至極当然の主張を爽やかに言ってみせた。しかし大蔵省ではまだ担当窓口も決まっていない様子、澤上の訴えも響かせる相手が不在だった。
その後も毎日のように申請書類を見てくれと通ったが、数人の係官の間をたらい回しにされる日々がダラダラと続いた。
日参当初こそ爽やかな気持ちで門を叩いた澤上も、こうも遅々として進まないとなると冷静ではいられない。元来のせっかちな面が表に出始めた。
「社長、いかがですか?」
オフィスに戻った澤上の表情に田子は敏感に反応した。大きな体に似合わず繊細なところがある。
「まともに話も聞いてもらえなかった」
「法律が改正されたといっても、やはりウチのような小さいところは相手にしてもらえないのでしょうか」
「いや……」と言いかけたところで、澤上は言葉を止めた。焦りに任せ愚痴をこぼしたくないのだ。
「他所の出方を待って、投資信託自体が普及してからでも遅くはありません。その間にウチは実績を積み上げ、それから挑戦する方が無難でしょう。その頃には資金的な体力もついているでしょうし、何より大蔵省が熟こなれてくれば認可も下りやすいはずです」
「そうじゃない。本格的な投信を多くの日本人が必要とするはずなんだ。だから一刻も早く出さなきゃいかん。ウチや他所の都合なんてどうでもいい」
一般家庭に財産づくりの手段がないことを澤上は憂えていた。本格的な投資信託、つまり金融業者が儲けるためのものではなく、真に受益者のための投資信託を誰かがつくらなければならない。そんな澤上の使命感は公に対する憤りに変わっていた。
「お言葉ですが社長、毎日のように大蔵省に通っても進展がないのであれば……」
「いや、次は大人しく帰らない。必ず前進をみてやる。大蔵省の誰か一人でもウチに興味を持ってくれれば、それが突破口となるはずだ」
面会の約束が不要だということを盾に、翌日も澤上は大蔵省を訪ねた。
「私が担当窓口となりましたので、よろしくお願いします」
開口一番、若手係官の有里氏が担当に決まったと告げられた。あまりにあっさりとした報告だったため、澤上はこれまでの徒労を恨むどころか嬉しくてつい笑みがこぼれてしまった。ようやく集中攻撃のターゲットを得たのだ。
有里氏は認可制に移行しておそらく最初の申請書類を丁寧に確認し始めた。前例のない中を一つひとつ制定されたばかりの法律と照らし合わせていく作業だ。澤上は有里氏をせっつきながらも、次々と求められる書類の作成を進めていく。
「おおよそ問題なくすべての書類を確認させていただきました。ですが一点不足していることがあります。澤上さん、貴社の経営計画についてですが、何とかして三年で黒字化する目途は立ちませんか」
「後ろに金融機関とか大企業がいるわけではないので、ちょっと難しいですね」
「そうですか、困りましたね。このままだと書類を上に提出できませんよ」
「正直に言いますが、それらしい収支計画を作文するのは簡単です。ただその信憑性を裏付ける書類を出せとなると……」
澤上もこれには困った。しかし臆することなく持論を展開する。
「ウチはこれまで実績と口コミだけでやってきました。もちろんこれからも同じです。そもそも投信ビジネスは営業や宣伝でお金を集めてはいけません。受益者に喜んでもらって初めて報酬をいただける。時間がかかるビジネスなのですよ」
有里氏の頷きに構わず澤上は続ける。
「いいですか。投信の販売はこれまで証券会社が独占的に扱ってきました。それゆえ大手以外は販売が伸び悩んでいるじゃないですか。これから銀行での取り扱いも始まりますよね。しかし上手くいくと思いますか?」
「…………」
「既存の考えに捉われず、まったく新しいことを始めていかないと日本に投信文化は根付かないんですよ。何度も言いますが、営業や宣伝でお金を集めちゃいかんのです。実績でもってゆっくりと信頼を積み上げていくのが本来あるべき姿なのです。有里さん、ウチは時間はかかるが日本にあって良かったと思える投信を必ずつくりますから、何とかしてもらえませんか」
「澤上さん、私は澤上さんの言葉や熱意を通じ、やろうとする投信ビジネスの可能性を感じているのです。しかしこの書類をそのまま上に出しても書面では伝わらないのですよ。受益者の財産を預かる立場として、やはり早期の黒字化は必須なのです。分かっていただけませんか」
有里氏も悩む。
帰社した澤上は一つの考えに至った。形式的な書類だけでは上級審査官に伝わらないのであれば、伝わるようなものを書いてやろう。
そうして澤上がしたためたのが『日本における投資信託ビジネスのあるべき姿と構造的な問題点』という大論文だった。
日本の投資信託は伝統的に販売中心のビジネスで成り立っており、それゆえ常に新しいファンドへの乗り換え営業を主体としている。これでは投資信託本来の姿である一般家庭の財産づくりに資することは不可能だ。この現状を打破するために、本格的な長期保有型の投資信託を直接販売していくしかない。
投資信託の直接販売という文化は日本にこそ存在しないが、米国ではむしろ主流である。日本においても運用会社が販売会社を担う直販投信が普及しない理由はないし、買うかどうかは個人投資家つまり受益者が決めることである。
したがって認可審査の段階で重要なのは、経営を安定させるに十分なファンドの販売ができるかどうかではないはずだ。あくまでも日本の投資信託文化を受益者のためのものに変えていく強い意志と気概を有しているかどうかで新規参入を促すべきだろう。
大論文を手に真正面から有里氏ならびに大蔵省の担当官にぶつかっていったのだが、そこで効いたのがさわかみ投資顧問のこれまでの実績だった。
営業や宣伝なしに二年半で数百件の顧客口座が開設されているのは、まともな投資運用サービスへの潜在需要が大きい証明であり、直接販売型の投資信託が伸びない理由はないという論法につながったのだ。
そこから有里氏の指導も非常に協力的なものとなり、申請書類の作成スピードが急に上がった。そして、いつものやり取りを終えた澤上が大蔵省を出ようとした時に、有里氏の口から待ち望んでいた言葉が放たれたのだった。
「次に来庁される際に正式な申請書類を持参してください」
澤上は天にも昇る気持ちとなった。
大蔵省日参を始めてから一ヶ月後の一九九九年二月、さわかみ投資顧問に投資信託ビジネスの内認可が下りた。
認可が下りると決まったさわかみ投資顧問は急に忙しくなった。資本の増強、投資信託ビジネスに耐えられる広いオフィスへの移転、ファンドの基準価額を算出するシステムの導入、投信計理の専門家を筆頭とした人員確保など様々な面で資金需要が噴き出した。そしてもう一つ、大切な仕事が待っていた。社名の変更だ。
投資信託ビジネスへの進出を機に、澤上はさわかみという自らの姓を冠した会社からの脱皮を図り、より普遍的な社名にしようと考えていた。澤上の頭に即座に浮かんだのがまほろばだった。
まほろばとは古語で、人々が心優しく穏やかに生活している郷という意味を指す。まさしく長期投資の先に広がる世界を彷彿とさせる言葉だ。ギラギラした理想郷のイメージが強い黄金郷『エル・ドラド』と違い、しっとりとした豊かさを訴えられる。
まほろば投信
まほろばファンド
送られてきた不動産情報のファックスの裏紙に青いインクで記した二つの名称に、澤上は一人、悦に入った。
「澤上さん、その名前は詐欺っぽいですよ」
真っ先に反対してきたのが神氏だった。それ以外の友人たちからも徹底的に反対され、澤上の至高の名称案は総スカンを喰らった。
「それじゃあさわやかでいきましょう。いやあすなろでもいい」
しかし周囲の反応は変わらない。数多くの企業と付き合ってきた税理士たちの経験では、きれいな社名ほど胡う散さん臭いイメージを与えるという。
澤上はがっかりした。まほろばを超える名称など思い浮かぶものか……。
仕方なく自身の姓であるさわかみと、再び万年筆で二つの名称を綴ってみる。
さわかみ投信
さわかみファンド
改めてこれから命懸けで勝負していく会社の商号、商品名を眺めてみた。
さわかみは濁音もなくすっきりとした響きであり、何よりさわかみ投資顧問という馴染みの名称でもある。
既に覚悟を決めたこともあってか、澤上は今更ながら、さわかみという呼び名を気に入り始めた。
さわかみが個人名でなく一般名称になるくらい成長すれば良いことだ。いずれ、さわかみなんて文字もなくしてしまっても良いだろう。
四月二十三日、さわかみ投資顧問は『さわかみ投信』へと商号を変更した。
(続く)
儲けない勇気
大手投資ファンドの現社長が激務の合間を縫って、自ら書き下ろしたノンフィクション小説『儲けない勇気』が今、ビジネスマンの間で話題です。
小説の主人公は、著者の父であり、長期投資のカリスマ・澤上篤人。
当時の常識ではありえなかった、一般家庭のための「独立系直販投信」の設立に奮闘する革命児・澤上のキャラクターは、やはり魅力的なまでに破天荒。息子にしか書けないであろうエピソードも満載です。たった一人の男の熱い信念が周囲を巻き込み、不可能だと思われた「理想」を「現実」に変えていくそのプロセスは、投資というジャンルを超えて、仕事をする全ての人の心をうつ作品です。
金融庁の規制や常識という壁、ITバブル崩壊や9.11テロなど、、、時代の荒波を乗り越える彼らの姿を追いながら、平成経済史としても楽しめる本作より、一部を無料公開いたします。