凡人には手の届かない頭脳を持った、美しき天才たちの日常を知りたい――!
その思いで、小説家・二宮敦人氏が、担当編集者とともに数学者のもとへ。
数学には、100年以上も解かれていない「未解決問題」というものがあって、数学を愛する人たちにとっては、それは最高に素敵なものらしい…。うーん、やっぱり謎!
そんな謎多き彼らのヴェールを一枚ずつ剥がしていくノンフィクション『世にも美しき数学者たちの日常』。
日本を代表する数学者である黒川信重先生には、凡人には見えないものが見えているみたいですよ!
* * *
人間には「食べきれない」問題
「リーマン予想を実際に解くのは、やはり相当難しいんでしょうか」
「人間が扱える限界に近いと思いますね。ある意味では百五十年くらい、進展がないわけですし……」
何気なく百五十年などという言葉が出てきて、絶句してしまう。
「そんな問題、どうやって解くんですか?」
「そのまま考えるのは難しいので、それを解くための新しい問題を作ったり、細かいバリエーションを作って少しずつ解いたりしていくんです」
とても一度には食べきれない大盛りのパフェがあるとしよう。まずはウェハースだけを食べ、次にアイスを攻略するというように段階を踏む。あるいは、フルーツ部分をミキサーにかけ、ジュースにして攻略しやすくする。ざっくりそんなイメージである。
「この場合のリーマン予想、この場合のリーマン予想というように細分化してね。その中のいくつかでは、きちんと解けているんですよ」
「ウェハースとか、アイスとかの一部は攻略できた、ということですね」
「はい。そういうのを見ると、元気が湧いてきます」
「なるほど……『この場合のリーマン予想』のバリエーション、つまりパフェの具はいくつくらいあるんですか?」
「今はですね、無限個あることがわかっています」
「…………」
食べきれないぞ。
「解いているうちに少し別の問題になったりすることもあります。整数論から幾何(きか)になるとか。リーマン予想から、その変形であるラマヌジャン予想ができたり、そのラマヌジャン予想が解けることで、フェルマー予想が解けたり……そうしてあちこちに波及して、進歩したりもするんです」
「問題が問題を生んだり、別の問題を解くヒントになったりするんですね」
大盛りパフェ攻略に使えた技術が、大盛りカツ丼に応用できたりもする。それを見た店主が、ならこれも食ってみろと大盛りラーメンをメニューに加えたりする。そうして切磋琢磨が生まれていく。
「じゃあいつかリーマン予想も解けそうですね」
前に進んでいるのは確かです、と頷いてから、黒川先生は首を傾げた。
「ただ、問題が解けるというのは、我々としてはそんなに嬉しくないんですね。商売道具が一つなくなってしまう、ということでもあるので……」
「数学の世界で、解く問題がなくなって商売あがったり、なんてことはありうるんですか?」
「問題は、なくなりません。いくらでも作れるはずです。ただ、今の人間に解けそうな問題がなくなる危惧、というのがありますねえ」
そうか。数学には、人間の能力を超えた問題というものがありうるのだ。
「進化した人工知能や、次の世代の生き物なら解けるかもしれませんが……彼らがそういう問題を解いているのを見ることができても、人間には理解できないでしょうね」
「解けているのに、理解できないわけですか」
「はい。なぜ解けているのかわからない。問題には適切なレベルというものがあって、ただ難しくなってもダメなんです」
「そんな時、どうするんですか」
「数学の発展の歴史を見るとよくわかります。難しくなりすぎて行き詰まってしまったら、数学自体の仕組みを変えたりするんですよ。で、簡単なところからもう一度出発すると」
ちょうどいい難易度のパズルを作って、解き続けるようなものだろうか。
「そうして作った『新しい数学』を進めることで、根本から考え方を見直せるので……以前の数学が積み残していた問題が、ひょっこり解けたりもするんです」
「その『新しい数学』って、たとえばどんなものなんでしょうか」
「そうですね。いろいろあると思いますけれど、僕は最近『一しか使わない数学』というものを考案しているところなんですよ」
黒川先生の目は、きらきらと輝いていた。
一しか使わない数学。ウェハースだけで作られたパフェ。ちょっと見当がつかないが、新しいことは確かだ。
「数式」から人柄がにじみ出る
好奇心から、こんな質問をしてみた。
「数学者同士で集まった時、どんな話をするんでしょうか? やっぱりこの数式は美しいとか、そんな話になりますか」
「どんな数式が好きか、というのは人それぞれありますね。それは絵を見る時の好みのようなものだと思います。でも、雑談ではそんなにしないかな……好きな数学者の話で盛り上がったりはしますよ」
意外だった。数学者の関心事はあくまで数字であって、人ではないと思い込んでいたから。
「それは……たとえば歴史好きが、織田信長の話で盛り上がるようなものでしょうか」
「似ているかもしれませんね。リーマンの論文もね、手書きのものが残っているわけです。そこから人柄が伝わってくるんです」
「数式に人柄が出るんですか?」
「はい、出ますよ。たとえばリーマンの数式はちょっと暗くて、内向的なんですね。対してオイラーなんかは明るくて、自信がにじみ出ているんです」
超難易度の問題、リーマン予想を作ったリーマンは約百五十年前の人。膨大な業績を残し、数学界の巨人と言われたオイラーは約二百五十年前の人。リーマンはその業績を当時十分に理解されず、三十九歳の時、結核で亡くなっている。オイラーは視力の低下に悩まされ、やがて両目を失明するが、口述筆記で膨大な論文を書き上げた。
無機質な数式の裏側には、人生があったのだ。
ふと、黒川先生は言った。
「数学をやっているとですね、果たして自分にこれが理解できるのかと、不安になってしまうことがあるんです。問題であっても、証明であっても」
「えっ、黒川先生でも数学をやっていて不安になるんですか」
「そんな時にですね、過去の数学者たちの手書きの論文を読むんですよ。直筆の論文が残っていて、図書館なんかで見られるんです。『これも人がやったんだ』とわかると……自分にもできるはずだ、と元気が出るんです。親しみが湧くんですね」
数学者が数式を見る時、その向こうの「書いた人」も視野に入っていたのだ。
「数学は、人から人へ伝えるものだと思います。リーマンは若くして亡くなったので、さぞ無念だったろうと。その思いを晴らしてあげたい。オイラーが当時できなかったことが、今の数学だったらできるかもしれない。ならそれを我々がやらなくちゃならない、と思うんです」
にこにこと笑う黒川先生からは、同じ世界で戦った仲間たちへの愛が感じられた。遥か二千五百年前のピタゴラスから、何人もの手を経て受け継がれてきたバトンは今、黒川先生の手にある。生きた国や時代は違えど、数字という共通語が彼らを繋いできた。
僕は黒川先生の研究室をもう一度見る。あの膨大な手書きのメモを見て、若い数学者がバトンを受け取るのだろう。
ずいぶん勘違いをしていたらしい。数字のことしか考えていないのは数学者ではなく、僕だった。僕は数字の向こうにいる数学者たちをこれまで見ていなかったのだから。
僕は袖山さんと顔を見合わせ、頷いた。
これはお見合いリベンジどころではないぞ。もっときちんと、数学者たちのことを知りたい。決意を新たにしたのであった。
* * *
絶賛発売中!17万部のベストセラー『最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常』の著者・二宮敦人氏による、“知の迷宮を巡るノンフィクション”。
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世にも美しき数学者たちの日常
「リーマン予想」「P≠NP予想」……。前世紀から長年解かれていない問題を解くことに、人生を賭ける人たちがいる。そして、何年も解けない問題を”作る”ことに夢中になる人たちがいる。数学者だ。
「紙とペンさえあれば、何時間でも数式を書いて過ごせる」
「楽しみは、“写経”のかわりに『写数式』」
「数学を知ることは人生を知ること」
「数学は芸術に近いかもしれない」
「数学には情緒がある」
など、類まれなる優秀な頭脳を持ちながら、時にへんてこ、時に哲学的、時に甘美な名言を次々に繰り出す数学の探究者たち――。
黒川信重先生、加藤文元先生、千葉逸人先生、津田一郎先生、渕野昌先生、阿原一志先生、高瀬正仁先生など日本を代表する数学者のほか、数学教室の先生、お笑い芸人、天才中学生まで。7人の数学者と、4人の数学マニアを通して、その未知なる世界を、愛に溢れた目線で、描き尽くす!
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