

辻山さんは、どうして自分で本屋を開こうと思ったのですか、という質問をよく受ける。病気の母親のそばにいるうちに、生きかたを変えようと思ったのですと話すと、その話は大概そこで終わってしまう(想定していた答えと違ったのかもしれない)。
ほかにもいくつか理由はあるのだが、いま振り返っても、その無為な時間こそが、わたしに会社を辞めさせ、自らの店を開かせる原動力になったことは間違いない。
批評家の若松英輔さんは、女性哲学者であるハンナ・アレントの、「労働」と「仕事」という言葉の使い分けに着目している。労働すなわち英語のlaborには、「陣痛」あるいは「分娩」という意味もあり、生命活動と深く結びつく営みだという(『考える教室 大人のための哲学入門』NHK出版)。お金を稼ぐ手段を示す、仕事(work)という言葉とは異なり、労働には「人間の根源的な尊厳のようなもの」という意味が含まれる。若松さんによれば、たとえ仕事はしていない状態でも、生きるという労働は、激しく行っていることがありえるというのである。
母の胃癌がわかり、家の近くの総合病院に入院するようになったとき、当時勤めていた会社に話し、実家のある神戸に定期的に通うようになった。看病といっても、専門的な多くのことは、看護師さんがやってくれる。その時間のほとんどをベッドの横で過ごし、母が話したくなれば相手をすることが、わたしに与えられた役割だった。
ベッドの横では、時間は捕まえられそうなくらいゆっくりと流れ、東京で仕事をしている時とは、まったく別の表情を見せた。母親はこうした時間を生きていたのかと思うと、忙しいことがひそかな誇りであった東京での生活が、次第に遠ざかっていくように感じられた。それがすべてだと思っていたことは、決してそうではなかった。
そのように東京と神戸を往復するうちに、自分の価値観はゆらぎはじめ、ある考えが次第に心のなかを占めるようになった。本を売ることには変わりはないが、もっと生活に密着した、違う生きかたをしてみたいと思うようになったのである。
半年の入院生活を経て、母は亡くなった。会社を一週間休み、葬儀その他をすませたあと勤めていた店に戻り、会社を辞めたいと思っている旨を上司に伝えた。
病気がわかってからというもの、母はベッドに寝ていただけかもしれないが、確かに「労働」していたのだろう。母はわたしの店を見ることもなく逝ってしまったが、それ以外の可能性はなかったように思う。
今回のおすすめ本
書くことは、自分を知ることだ。詩のこころをほんとうに生きるならば、自分の手を動かして〈書く〉必要がある。自らを生かすために書かれた、第一詩集。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年3月14日(金)~ 2025年3月31日(月)Title2階ギャラリー
漫画家・上村一夫が1974年に発表した短編集『あなたのための劇画的小品集』の復刊にあたり、当時の上村作品を振り返る原画展を開催します。昭和の絵師と呼ばれた上村一夫は、女性の美しさと情念の世界を描かせたら当代一と言われた漫画家でした。なかでも1972年に漫画アクションに連載された「同棲時代」は、当時の若者を中心に人気を集め、社会現象にもなりました。本展では、『あなたのための劇画的小品集』と同時代に描かれた挿絵や生原稿を約二十点展示。その他、近年海外で出版された海外版の書籍の展示・販売や、グッズの販売も行います。
◯2025年4月5日(土)~ 2025年4月22日(火)Title2階ギャラリー
大江満雄(1906-91)は、異なる思想を持つさまざまな人たちと共にありたいという「他者志向」をもち、かれらといかに理解し合えるか、生涯をかけて模索した詩人です。その対話の詩学は、いまも私たちに多くの示唆を与えてくれます。
Titleでは、書肆侃侃房『大江満雄セレクション』刊行に伴い、著作をはじめ、初公開となる遺品や自筆資料、写真などを紹介する大江満雄展を開催します。
貴重な遺品や私信に加え、大江が晩年「風の森」と名付けて、終の棲家とした家の写真パネルなども展示。本書収録の詩や散文もご紹介します。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)
◯【お知らせ】
メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。