最近、なんだか世の中が、ぎすぎすしている、という印象がございます。
ちょっとしたことで、誰かや何かを寄ってたかって、袋叩きにするような、そんなあれこれを見聞きするたびに思うのは、人々が心に余裕を失くしているのではないか、ということです。
高齢少子化の流れの中で、経済の状況も芳しくなく、先行きの見通しに楽観できる要素の少ない現在のこの国にあって、心や気持ちに余裕を持て、というのは、無理な話なのかもしれません。
今の世の中には、糊代の部分が少なくなって来ているような気がいたします。
見方によっては、無駄に見えるような、しかし、とても必要な何か。
糊代、というのは、そういうものです。
私が子供の頃、大抵の家庭には必ず、閑(ひま)そうに見える人が、一人くらい居たことを、思い出します。
隠居した祖父母であったり、ちょいと道を外れて、人生を生きる叔父や叔母であったり、毎日、主に何をして暮らしているのか、よくわからない人の存在が、多くの家庭に当たり前のようにあった覚えがあります。
そういう人たちの存在が、家庭内に争議をもたらすこともままあるのですが、そういったあれこれも引っくるめ、世の中は回って行っていた、という印象があります。
そういう人たちが存在することを許し、内包して行く余裕が、人々の心にあったとも言えますし、逆に言えば、そういった人たちが、クッションや潤滑剤のようにいろいろなものを吸収し、皆の気持ちに余裕を与えていた、という面もあったのではないでしょうか。
子供の時分、一番よく遊んでもらったり、いろいろなことを教えてもらったのは、家庭の中のそういう、閑そうな人たちからだった、という印象があります。
数年前に、定職を辞し、細々と文章を書きながら、のんべんだらりと暮らす現在の私は、傍から見て、何をして生きているのかわからない、不可思議な存在、と映るようです。
ここから先は会員限定のコンテンツです
- 無料!
- 今すぐ会員登録して続きを読む
- 会員の方はログインして続きをお楽しみください ログイン
美しい暮らしの記事をもっと読む
美しい暮らし
日々を丁寧に慈しみながら暮らすこと。食事がおいしくいただけること、友人と楽しく語らうこと、その貴重さ、ありがたさを見つめ直すために。