中国の威信を賭けた、北京五輪の開幕直前。開会式に中継される“運転開始”を控えた世界最大規模の原子力発電所では、日本人技術顧問の田嶋が、若き中国共産党幹部・鄧に拘束されていた。このままでは未曾有の大惨事につながりかねない。最大の危機に田嶋はどう立ち向かうのか……。2011年に発生した、福島第一原子力発電所の事故を予言していたとも言われる、真山仁の社会派小説『ベイジン』。今回は特別に、本書の冒頭をみなさんにお届けします。
* * *
体の芯が燃えているようだった。
楊麗清は首に巻いたタオルで流れ落ちる汗を拭きながら、喘ぐように呼吸した。
「何か問題、ありますか」
彼女のため息を映像への不満と思ったのか、助監督の論龍翔はモニターから目を外して、麗清を覗き込んだ。
彼は流れる汗を気にもしていない。暑さで気が散っている自分が子供っぽく見られているようで、麗清は顔をしかめた。
「映像に問題はないわ。ただ、暑くてどうにかなりそうなだけ」
普段は冴えない男だが、本番に入ると、人が変わったような厳しい顔つきになった。“六・四”天安門事件の革命家崩れと呼ばれる論の本性が、その表情にはっきりと出ていた。
彼は曖昧に頷くと、再び食い入るようにモニターを見つめた。カメラは、メインスタジアムめがけ軽快に走る聖火ランナーを捉えていた。
こんな暑さの中、炎を手によくも楽しげに走れるもんだわ。
既に陽は沈んだというのに、蒸し暑さは一向に収まらない。夏が苦手で、夜通し冷房をつけて寝る麗清にとって、この部屋は拷問だった。
オリンピックスタジアムの北京五輪記録映画専用室。コンクリートの打ちっ放しが四方を囲むだけの、窓ひとつない部屋にはモニターがズラリと並び、総監督の麗清以下二〇人近いスタッフがひしめき合っていた。彼らの体温と機材、パソコンが放出する熱で、冷房を最強にしても一向に効果がなかった。室温は、優に四〇度を超えているに違いない。専用室がいかにも急ごしらえなのは、ギリギリまで記録映画の製作が決まらなかったためだ。
オリンピックでは概ね、公式記録映画が撮影されている。その多くは、記録映画の最高峰とまで言われたベルリン五輪のレニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』など、開催国の一流監督がメガホンを執るのが一般的だった。だが、ここ数回は、開催国による撮影が適わず、世界的な記録映画作家のバド・グリーンスパンが監督を務めてきた。
陳凱歌、張藝謀、王家衛ら多くの人気映画監督を輩出する中国では、オリンピック開催国に決定した直後から、どの“巨匠”がメガホンを執るのかと話題になった。ところが、いずれの監督も固辞し、記録映画自体の製作が危ぶまれていた。そのため、本来なら用意されるべき専用室を隣接する放送センターの中に確保することすら適わなかった。
紆余曲折の挙句に五輪公式記録映画監督という大役を務めることになった楊麗清だが、カメラの設置場所や専用ブース確保に苦労させられる羽目に陥っていた。
テレビ局の人間は皆、冷房の利いた最新鋭の施設にいるというのに、私たちの扱いの悪さは一体なんだ。
麗清は事あるごとに不満を吐き、怒りをまき散らした。
「周辺の様子を伝えるカットもいるぞ」
モニターを睨んでいた論が、インカムマイクごしにカメラマンの怠慢を非難していた。三月二五日から世界中を巡ってきた聖火は、行く先々でトラブルに巻き込まれていた。チベット自治区で起きた暴動を、中国政府が武力鎮圧したことへの抗議のためだ。パリでは、三度も聖火の火が消え、さらに五月には四川大地震が発生するなど、各地で予想外の“事件”に見舞われたため、この日の北京はまさに厳戒態勢で、妨害阻止の構えを敷いていた。
論の声で冷静さを取り戻した麗清は、モニターを見た。
「聖火ランナーでいいじゃない。とても良い表情をしてるんだから」
論は不満そうだったが、麗清は無視して聖火ランナーを見つめ続けた。ランナーが誇らしげに市街を快走していた。
「それにしても、よくこんな涼しげに走れるもんだわ」
今度は声になって出た。
ランナーは額にうっすらと汗を滲ませる程度で、狂気じみた猛暑の中で走っていることなど微塵も感じさせなかった。麗清の妙な感心に同調するように、若手スタッフたちが失笑した。
大体、何だってこんな一番暑い時期に、オリンピックをやるんだ。
バカげた理由だった。中国人に最も愛されている“八”が並ぶ日に、世紀の祭典の幕を開けたかったからだ。二〇〇八年八月八日午後八時開会などという、くだらないラッキーナンバーにこだわった人間を、彼女は許せなかった。
「開会式まであと一時間です!」
ランナーに負けじと、記録係が声を張り上げた。既に、記録映画班の“祭典”は始まっている。スタジアムの五カ所にカメラを据え、他に周辺の撮影班が三班、聖火ランナーを追いかけるなどの外回りも五班を配備した。いずれもが、開幕前の興奮と緊張の場面をカメラに収めているはずだった。
「貴賓席の画を出して」
巨大なプラズマ画面に、メインスタジアムのロイヤルボックスが映し出された。カメラは中央にある空席に焦点を合わせていた。この日の主役の一人、国家主席の席だった。
「ちょっと暗いんじゃないの」
麗清は呟くと、インカムで現場ディレクターを呼び出した。
「墓場みたいよ、もっと明るくしてよ」
「開会式の邪魔になるので、光量を落とせと言われまして」
主席の顔を、陰気くさく撮るわけにいかないでしょうが!
「いいから、テストだと言って明るくしてよ」
ディレクターの自棄気味な怒鳴り声がヘッドセット越しに聞こえたが、暫くすると画面中央が急に眩くなった。
「主席席にフォーカスして。周りは暗い方が、彼が輝いて見える」
指示通りに照明の輪が絞られて、光が一点に集まった。彼女の脳裏に、主席の輝く笑顔のイメージが浮かんだ。
「結構よ、本番は、それでいって」
「こんなの、許可出ませんよ」
「許可なんていらないわよ。国家主席を輝かせる光を妨げるようなバカな奴は、この国にはいないわ」
暑いだけでも腹立たしいのに、ここの連中ときたら、文句ばっかり!
麗清はヘッドセットを外すと、鬱憤を振り払うように席を立った。滝のような汗のせいで湿ったブラウスのボタンを一つ外し、部屋の隅に置かれたクーラーボックスを開いた。中は空っぽだった。英語で悪態をつくと、クーラーボックスを覗き込んだままの姿勢で声を上げた。
「誰か、氷もらってきて!」
雑用係の少年が、慌てて飛び出していった。少年が扉を開けた刹那、涼しい空気が流れ込んだ気がして、麗清は部屋を出た。
廊下も噎せ返るように暑かった。それでも、部屋にこもっていた閉塞感はない。麗清は大きく伸びをしてから壁際のベンチにへたり込み、目を閉じた。
ハリウッドから戻って一年。こんな酷暑の中で、映画を撮るとは思っていなかった。国を代表して記録映画を製作する栄誉は嬉しかった。だが、全てにおいて旧態依然としたこの国のやり方には、我慢ならなかった。
やっぱり、私にはこの国は合わない。これで結果を出して、今度はヨーロッパで勝負しよう。そのためにも、今まで誰も見たこともないような凄い作品を創り上げてみせる。
人の気配で目を開くと、先ほどの少年が立っていた。
「何?」
彼は白い歯を見せて彼女にハンドタオルを差し出した。受け取ったタオルは、ひんやりと冷たかった。
「ありがとう。あなたは、優しい子ね」
少年ははにかみながら、何度もお辞儀をした。
麗清はタオルの冷たさで、しばし恍惚となった。だがその至福は、携帯電話の着信音で破られた。
もう、全く。今度は、何!
彼女は舌打ちをして、ディスプレイを開いた。紅陽市にいるディレクターの名が画面にあった。開会式に合わせて大連市郊外にある世界最大の原子力発電所が運転開始する予定だった。そのセレモニーの様子を、オリンピックスタジアムのオーロラビジョンに映し出すことになっていた。ディレクターはその中継担当者だ。
嫌な予感と共に麗清は電話に出た。
「どうも雲行きが、怪しくなってきました」
この男は、どんな時でも回りくどい。
「さっさと用件を言って」
「責任者同士が、中央制御室の中で言い争いを始めまして……」
二人の顔が、同時に浮かんだ。一人は鄧学耕、冷酷な目をした叩き上げの共産党エリート。もう一人は日本人技術顧問の田嶋伸悟、核電建設にロマンを抱く、楽観主義者だ。この二人が、世界最大の核電(原発)の運開、すなわち営業運転開始の責任者だった。
「どういうこと? 事情を説明して」
「何が起きているか、詳細は分かりかねます」
相手に聞こえるように舌打ちした麗清は、命令口調で言い放った。
「じゃあ、分かる人に聞いてきなさいよ」
嫌みなため息が返ってきた。思わずカッとなった麗清は、追討ちをかけた。
「五分以内にやりなさい」
反論を封じ込めるように、彼女は携帯電話を切った。
部屋から秘書が飛び出してきた。
「ロイヤルボックスから早く来いと、うるさく言ってきています」
「はいはい、今、行くわ」
関係者は開会式一時間前には、所定のロイヤルボックスに、正装で待機するよう厳命されていた。だから、シルクブラウスなんてものを着て、汗でぐっしょり濡れそぼる羽目に陥ったのだ。麗清は顔をしかめて立ち上がった。
「楊さん、忘れ物」
歩き始めた麗清を、秘書が呼び止めた。ジャケットを手にしていた。
「ちょっと待ってください」
秘書は持っていたポーチを開き、化粧崩れを直してくれた。
「ありがとう、あなたがいないと、私はこの国で生きていけないわ」
麗清はウインクすると、大股で薄暗い廊下を歩き始めた。
──没弁法(しょうがない)、それが中国よ、という言葉を心で繰り返しながら
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