悪党どもに、女神の鉄槌を! 危険すぎる美人刑事、八神瑛子が帰ってきた。その美貌からは想像もつかない手法で数々の難事件を解決してきた瑛子が、外国人技能実習生の犯罪に直面。そんな彼女に監察の手が伸びる。刑事生命が絶たれる危機……それでも瑛子は事件の闇を暴くことができるのか? 累計40万部を突破した、深町秋生の人気警察小説シリーズ。その最新刊が、本作『インジョーカー』だ。読んだ瞬間、引き込まれる物語の冒頭を、特別に公開します。
* * *
八神瑛子はミニバンのなかで双眼鏡を覗いた。
百メートルほど先の木造建築物を見張っている。もとは商人宿だったらしいが、約二十年前に廃業した。家主が替わり、日本家屋風の古びた建物だけが残り続けた。
周辺もくたびれたビルや住宅が並んでいて下町らしい風情があるが、みすぼらしさは際立っていた。政党のPRポスターや探偵事務所の宣伝シールが外壁にベタベタと貼られている。
東上野の下町でも、この手のぼろ屋を最近は見かけなくなった。鉄筋ビルに生まれ変わるか、巧みにリフォームされて小奇麗なカフェや料理店になっている。上野署に赴任して四年以上の月日が流れ、街の風景は変わった。
一台のタクシーが停まった。
「来たわ」
部下に知らせた。ミニバン内の空気がぴんと張りつめる。
隣で舟を漕いでいた井沢が頭をあげた。頬を両手で叩いて活を入れてから、彼も双眼鏡を手にする。タクシーを注視した。
「あきれたな。もう日も高々と昇ってるってのに」
タクシーの後部座席には、中年男がいた。名は安西達志という。肩書きはNPO法人『ふたたびの家』の常務理事だ。
仕立てのいいダブルのスーツとノリの利いたワイシャツを隙なく着こなしている。頭髪は黒々と染め、七三にきっちり分けている。
身なりこそ立派な実業家風だが、素行がいいとは言えない。今もタクシーの運転手となにか揉めているのか、カードで精算しながら、激しい身振り手振りを交えて罵声を浴びせているようだ。登校中の小学生が怯えた表情で、タクシーの横を通り過ぎる。
安西が運転手のシートを蹴りつけてから、タクシーを降りた。身体をぐらつかせる。
昨日の夕方にここを出ると、安西は上野二丁目の歓楽街のキャバクラやカラオケスナックをハシゴしていた。同じ上野署組対課員が確認している。
昔から酒と女好きで知られており、近ごろは上野や湯島で豪遊している情報が瑛子の耳に入ってきた。彼の身辺を洗った先にたどりついたのが、この廃屋のような元商人宿だ。安西にすれば金の卵を産む鶏であることが判明している。
双眼鏡を持ったまま、瑛子は言った。
「酩酊のおかげで、こっちはやりやすくなるかも」
タクシー運転手とのやりとりを見るかぎり、安西の酒癖は直っていないらしい。
彼の左手の小指は欠けている。若いころに兄貴分の情婦が経営するクラブで暴れ、ケジメをつけさせられたからだ。狡猾な悪党だが、酒にまつわる失敗談は少なくなかった。
瑛子は携帯端末を手にした。ハンズフリー通話で課長の石丸に伝える。
「安西達志が職場に戻りました。これより家宅捜索に着手します」
〈了解。ひさびさの大ネタだ。ご機嫌斜めな署長を悦ばせるチャンスだぞ〉
井沢が舌打ちした。
「んなこと言われたら、逆にやる気が失せちまいますよ」
「恋人としばらく会ってないんでしょ。今日できれいにカタをつけて、たっぷり寝技の稽古でもやり合いなさい」
井沢の肩を肘で突いた。彼の恋人は私立大学の女子柔道部でコーチをしている。
彼は目を見開いた。
「なんでそれを──」
井沢の驚きを無視し、車内の組対課員に声をかけた。
「さあ、連中の身柄を押さえましょう。籠城されたら面倒くさい」
女性は瑛子ひとりだけで、他の四名はガタイのいいマル暴刑事だ。
まだ季節は春を迎えたばかりで、外の気温は十度を割っている。男たちの熱気のおかげでカイロもダウンジャケットも不要だった。
ミニバンを出た。朝の冷気が頬をなでた。ふらつく安西を瑛子らが追いかける。
安西の根城である元商人宿は、一見するとみすぼらしい建物だ。注意深く観察すれば、ただのボロ屋でないことがわかる。すべての窓には、建物の色に合わせたこげ茶色の金属製の格子が取りつけられ、内側は板が打ちつけられてある。
安西が入ろうとする玄関ドアはスチール製で一切の鍵穴がなく、カードキー式だった。庇には人感センサー付きの防犯ライト、それにドーム型の監視カメラが設置されている。
建物とは対照的に玄関や格子はやけに真新しい。暴力団事務所を思い起こさせる。
安西がカードキーを玄関ドアのセンサーにかざし、ドアノブを摑んだところで声をかけた。
「安西さん」
「ああ?」
安西が淀んだ目で睨み返してきた。
声の主が瑛子とわかると、酔いが一気に醒めたらしい。表情を強張らせ、すばやく玄関ドアを開けた。なかに向かって、大声を張り上げる。
「刑事だ、刑事だ、家宅捜索だぞ!」
安西は建物内に入りこみ、玄関ドアを閉めようとした。
瑛子は地面を蹴って間合いをつめた。ドアの隙間につま先をねじ入れる。挟まれ、ドアの重みを感じたが、彼女が履いているのは鉄板入りの安全靴だ。安西らが瑛子を快く迎えてくれるとは思っていなかった。防刃ベストを着用し、特殊警棒と拳銃も携行している。
「上野署の者だけど、理解が早くて助かる。ついては家宅捜索の立会人になっていただきたいの」
建物内から複数の人間がドタバタと駆けまわる音がした。「家宅捜索だ、家宅捜索だ!」と、男の声が耳に届く。
「やかましい! その汚え足をどけろ!」
安西からは、やはり強烈なアルコールの臭いがした。
彼が瑛子の脛を蹴飛ばそうとした。公務執行妨害の現行犯で捕まえるチャンスだ。
安西は堪えた。深呼吸をして足を地につけると、顔を怒りでまっ赤にしつつも薄笑いを浮かべる。
「ど、どうもすみません。ちょっとばかり酒が入ってるもんですから。家宅捜索となれば、まずはそちらの身分証明書と捜索令状を見せてもらえませんか」
井沢が警察手帳を見せながらドアに手をかけた。
「ぐだぐだ言ってねえで開けろ、この野郎。上野署ナメてんのか」
安西もドアノブを摑んで抵抗する。
「こっちもですね。とっくにカタギになって、何年も善良な市民をやってるんですよ。まずは見せるものをきちんと見せるのが、税金でメシ食ってる公務員のやり方ってもんでしょうが。一体なんの容疑で、ここを調べようってんです」
瑛子は鼻を鳴らした。場数を踏んでる悪党だけに、いくら酩酊していようが、安西はぎりぎりのところで冷静さを取り戻している。
建物内では怒声が響き渡り、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっている。安西が白々しく胸ポケットから老眼鏡を取り出してかけた。
彼が言ったことは間違っていないが、のらりくらりと押し問答を続けて、時間稼ぎをしようとするのは明らかだ。その間に証拠を隠されてはかなわない。
ポケットからミントキャンディーを一粒取り出した。眠気覚ましのために持ち歩いていたものだ。
「捜索令状なら今見せるから、これでも舐めて落ち着いて」
「ああ?」
安西のワイシャツの胸ポケットに、ミントキャンディーをねじ入れた。
「口臭がひどくてたまんないから舐めろと言ってるの。そんな肥溜めみたいな臭いさせてるから、オキニのエンジェルちゃんから袖にされるのよ」
安西が薄笑いを消して、目を吊り上げた。
「んだと、コラ!」
エンジェルとは錦糸町のフィリピンパブで、安西が入れあげている娘だ。彼は歯を剥いて吠えると、瑛子の右手を荒っぽく払いのけた。
右手をさすりながら部下たちに告げた。
「公務執行妨害の現行犯。引きずりだして」
「了解!」
組対課員が三人がかりで、ドアを無理やり開け放つ。
井沢が安西の胸倉を摑み、外へと引っ張り出した。ホスト風の長髪をなびかせ、柔道技の大腰をかけると、安西を地面に叩き伏せた。安西の両手を後ろに回して手錠をかける。
「ほら、手間かけさせんじゃねえ、絞め落とすぞ!」
腰を強打した安西が、顔を苦痛に歪めながらうなった。
「き、汚えぞ、クソアマ……」
玄関の三和土には、安西が持っていた紙袋が落ちていた。それを拾い上げると、彼は悔しそうに口を曲げる。
紙袋のなかから、ゴムで束ねられたプラスチックの赤いカードが出てきた。ざっと二十枚といったところか。BSやCSの番組を好き勝手に試聴できる変造されたB-CASカードだ。あこぎな貧困ビジネス業者が、小遣い稼ぎのために扱う。
安西を見下ろした。
「私電磁的記録不正作出及び供用罪。それに不正競争防止法違反の容疑もプラスしておくわ」
「そ、そんなもん、知らねえ! てめえら、手錠外しやがれ。ふざけた真似しやがって、弁護士を呼べ!」
いつまでも安西にかまっている暇はない。目当てはあくまでも建物内だ。井沢を連れて土足で廊下を進む。
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インジョーカー
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