最愛の息子が池で溺死。絶望の淵で知可子は、息子を産み直すことを思いつく。同じ誕生日に産んだ妹に兄の名を付け、毎年ケーキに兄の歳の数のローソクを立て祝う妻の狂気に夫は怯えるが、知可子はいびつな“完璧な母親”を目指し続ける。そんな中「あなたの子どもは幸せでしょうか」と書かれた手紙が……。まさきとしかが紡ぐダークミステリー、『完璧な母親』。最新作『ゆりかごに聞く』の発売を記念して、その一部を公開します。
* * *
色褪せた藍色ののれんが目についた。店先には信楽焼のたぬきとひな菊の鉢植え。営業中の札が出ているが、ガラス戸の向こうは薄暗く、にぎわいの気配はしない。
友高波琉子がそのそば屋に入ったのは、これ以上歩き続けることを足が拒んだからだった。
正午前の店内には初老の男性客がひとりいるだけで、店主はカウンターのなかで新聞を読んでいた。壁に貼られた手書きのメニューは黄ばみ、カウンターのすみには週刊誌とスポーツ新聞が置かれ、座布団には年月が染み込んでいる。
波琉子は鶏南蛮そばを注文し、テーブルの下でショートブーツから足を引き抜いた。溜まっていた空気が抜け、自然と息が漏れた。ふくらはぎがだるく、膝は熱を帯びている。東京に戻ってからあてもないまま歩き続けた。すれちがう人がみんな自分を見ている気がし、視線に捕まってしまいそうで立ち止まることができなかった。
そばが運ばれ、うつむいたまま箸を取った。右手が激しく震えていることに波琉子は驚く。
私は自分が感じている以上に……。そこまで思ったものの、先が続かない。自分が感じている以上に動揺しているのか、憔悴しているのか、それともパニックになっているのか。
そんなわけはない、と思う。心は恐ろしく静かなのだ。まるで息の根を止められたように。まるで心そのものをもぎ取られたように。
波琉子は、自分がいまどんな顔をしているのか気になった。青ざめ、こわばっているだろうか。ポスターに印刷された指名手配犯のように鋭いまなざしだろうか。
風間秋絵、と聞こえ、顔を上げた。
吊り棚のテレビに、情報番組のキャスターが映っている。
「指名手配中の風間秋絵容疑者が、今日の未明、T市テクノパークの駐車場に倒れているところを発見されました。遺書はないとのことですが、ビルの屋上から飛び降りたものとみられます。また、事故あるいはなんらかの事件に巻き込まれた可能性もあるとして、警察が捜査を続けています」
カメラが切り替わり、駐車場が映る。黄色いテープが張られているものの、警察官も見物人の姿もない。水で洗い流したのか、アスファルトの一部分が濡れている。
「なお、風間容疑者とともに行動していた女性がいることから、彼女がなんらかの事情を知っているものとして、警察では行方を捜しています」
波琉子は箸を置き、右手の指先で手のひらをひっかく。感覚が薄っぺらだ。それなのに、セーターの毛羽立ちも、肌の弾力も、温かさも、風間秋絵という人間の最後の手ざわりのなにもかもが指にくっきり残っている。
風間秋絵の後ろ姿は無防備だった。
あっけなく彼女は落ちた。落ちたというより、ほんの一瞬宙に浮かんだのち、そのまま消滅したように見えた。
波琉子は右手を強く握りしめた。風間秋絵の最後の瞬間が、手のなかにある。
一九八二年四月二十五日、友高知可子は台所で薄焼き玉子を切っていた。冷やし中華は、波琉の大好物だ。円グラフを描くように錦糸玉子、ハム、きゅうりを盛りつけ、真ん中にシーチキンのマヨネーズ和えをのせるのが知可子流だ。
冷やし中華の季節にはまだ早く、しかも今日は寒い。台所の小さな窓から見える空は薄灰色で、天気予報によると午後から雨になるらしい。雨が降らないうちに帰ってくればいいけど、と知可子は思い、しかしすぐに、雨が降ったら傘を持って迎えに行けばいいだけだと思い直す。小学一年生の男の子だもの、雨が降ってもそのまま遊び続けるかもしれない。風邪をひいてこじらせでもしたら大変だ。
台所に立つと、知可子はいつも誇らしくなる。包丁を握る手や水滴のついた指、エプロンをかけた体が、望むものすべてを手に入れた女のもののように感じられ、その女とは自分のことなのだと嚙みしめる。すると、幸福な湯が体の奥から染み出してくるのだった。
自分は安上がりな女なのかもしれない、とおかしくなる。夫と息子、それだけでいい。借家ではあるが眠る場所があり、食べるものに困らず、蛇口をひねれば水が出て、心地よい湯で体を洗える。巣だ、と思う。親鳥である自分は息子を命がけで守るが、自分もまた息子に守られている。ここで家族三人身を寄せ合っていれば、怖いものなどない。もし巨大な隕石が落ちてきたとしても、自分たちは助かるという自信があった。
この絶対的な幸福感は、波琉が生まれてからだ。
それまでは気が変になるほど欲しているものがあった。心は飢えに蝕まれ、手に入れられないことへの怒りや恨み、嘆き、絶望がめまぐるしく吹き荒れ、平穏なときなどなかった。
不育症による流産を繰り返し、狂おしいほど欲しているものをやっと手に入れられたのは、結婚八年目、知可子が三十歳のときだった。二二八六グラムの低体重児だったが、光を放つ強い瞳を見てこの子は大丈夫だと確信した。
冷やし中華の具材を準備し、波琉が帰ってから麵を茹でればいいだけにしておく。さっきより雲の灰色が濃くなった。家々が並ぶその向こうに連なる山は寒そうなこげ茶色で、山の方向から吹く風が木の枝をせわしなく揺らしている。
ここT市は風がやむことがない。結婚した当初は、髪の毛を乱し、目にごみを入れ、埃を舞い上げる風に苛立った。
あれは、波琉が幼稚園に入ったばかりのころだ。家の前で通園バスを待っているとき、波琉は目をつぶり両手を広げ、強い風を真正面から受けながら、楽しい夢をみているように笑った。いつまでもそうしている波琉に、なにしてるの? と知可子は聞いた。風を抱っこしてるの。弾んだ声が返ってきた。その瞬間、T市の風は知可子にとって愛すべきものになった。
自分は頑固だとずっと思っていた。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきり分かれ、入れ替わることはけっしてなかった。夫の実とは恋愛結婚だったが、彼の好みにも影響を受けず、納豆も焼酎もジャイアンツも嫌いなままだった。
これが血を分かつことか、と知可子は自分の変化に驚く。強い風もだんごむしもキャンプも釣りも、波琉が好きなものを知可子は無条件で愛した。そうすると世界は温かな色に塗り替えられた。
やはり自分は安上がりな女なのだ。そう思い、食卓に腰かけた知可子のくちびるがゆるむ。安上がりでも、世界でいちばん幸せな女だ。望むものすべてを手に入れたのだから。
台所の窓に、短い糸のような水滴がついているのに気づいた。立ち上がって居間の窓から外をのぞくと、アスファルトはまだ濡れた色ではなく、降り出したばかりのようだった。
知可子はカーディガンをはおり外に出て、雨脚を確認してから傘をさした。冷たい風に、ぶるっと鳥肌が立つ。やはり温かいラーメンか焼きそばにすればよかったか、と考え、しかし、冷やし中華を食べたいと言ったのは波琉なのだった。冷蔵庫にある食材を思い浮かべ、もし波琉が温かいものを食べたがったら、かに玉ラーメンにしようと決めた。
波琉が遊んでいる公園は、家から歩いて三分ほどだ。アスレチック遊具と芝生の広場があり、野球とサッカーができるグラウンドを併設している。
アスレチック遊具のある広場には三人の男の子がいるだけで、グラウンドでは高学年の子がサッカーを切り上げたところだ。
ぱっと見ただけで、波琉がいないことがわかる。子供を迎えに来た顔見知りの母親と挨拶を交わし、じっとりと濡れはじめた公園を改めて見まわす。が、やはり波琉の姿はない。冷たい雨が、体の内側まで染みてきたように感じた。
「早く下りてきなさいって言ってるでしょっ」
母親が、アスレチック遊具の上にいる子供に怒鳴った。
渋々下りてきた男の子が、ケチ、とくちびるを尖らせ、母親に頭を叩かれた。波琉の同級生だ。
「波琉は一緒じゃなかった?」
知可子が訊ねると、
「帰ったよ」
と即答した。
「いつ?」
「さっき」
喉が苦くなる。
「ひとりで帰ったの? 自転車に乗って?」
「うん、そうだよ」
知可子の視界のすみにサッカーをしていた子たちが公園を出ていくところが映り、入れ違いになったんじゃないですか、と母親の声がこもって聞こえた。え、ああ、そうね、そうですよね、きっと。自分の声は水中をゆっくりと浮上するあぶくのようだった。
本降りになった雨のなか、知可子は誰もいない広場を突っ切り、公衆トイレへと向かった。駆け出したら不吉な予感が形を持ちそうで、落ち着いた足の運びを意識する。すると、つんのめりそうになり、いつのまにか早足になっていた。