最愛の息子が池で溺死。絶望の淵で知可子は、息子を産み直すことを思いつく。同じ誕生日に産んだ妹に兄の名を付け、毎年ケーキに兄の歳の数のローソクを立て祝う妻の狂気に夫は怯えるが、知可子はいびつな“完璧な母親”を目指し続ける。そんな中「あなたの子どもは幸せでしょうか」と書かれた手紙が……。まさきとしかが紡ぐダークミステリー、『完璧な母親』。最新作『ゆりかごに聞く』の発売を記念して、その一部を公開します。
* * *
グラウンドの外れに建つ公衆トイレには栃の木が覆いかぶさり、そこだけ暗く、閉ざされて見える。ふと、自分がなぜトイレに向かっているのかわからなくなり、叫び出したい衝動に駆られた。
ああ、そうか、と無理やり答えを見つける。いたずら好きなあの子のことだから、私が迎えに来ると思ってあそこに隠れているかもしれない。だから、私はトイレを探そうとしているのよ。
もしトイレにいなければ、さっきの母親が言ったとおり入れ違いになったのかもしれないし、同級生の家に上がり込んでいるのかもしれない。入れ違ったのだとしたら、家に入れなくて途方に暮れているだろう。早く確かめて、家に戻らなくては。
植え込みに囲まれたトイレは物置のようにそっけない造りで、年月による汚れが目立つ背面を知可子に向けている。
喉の苦みが強くなり、鼓動が激しくなった。
正面にまわり込み、トイレをのぞいた。白い便器と小さな手洗い場、ただそれだけ。ほうっ、と体から力が抜けたのと同時に傘を叩く雨粒の音が聞こえ出し、知可子は我に返った。玄関の前に立っている波琉が浮かび、かわいそうに、早く帰らなくては、と急ぎ足でその場を離れる。
家に着くまでのあいだに思い出した。波琉が生まれたばかりのころ、知可子が生まれ育ったまちで男児の遺体が公衆トイレで発見される事件があった。母親が目を離したすきにいなくなり、遺体となって発見されたのは翌朝のことだった。犯人は確か捕まっていない。その記憶が、公衆トイレに不吉な予感を持たせただけだと思い当たり、知可子は安堵した。
あの事件は、新聞やニュース番組だけでなく、ワイドショーでも大きく取り上げられた。下半身の衣類だけが脱がされていたことと、父親があのまちでは有名なホストだったこと、そして母親がパチンコをしているあいだの出来事だったことが判明し、世間の興味をあおった。犯人への怒りと男児への同情の裏側で、両親への非難や嘲りが渦巻いていた。
知可子も、声にはしなかったものの母親を糾弾したうちのひとりだ。幼い子供を放ってパチンコをすることはもちろん、一瞬でも目を離したことも、いなくなったことにすぐ気づかなかったことも、もっといえば、金色に染めた髪に強いパーマをかけていることも、派手な化粧をしていることも、長く伸ばした爪に色を塗っていることも、知可子にしてみれば母親失格で、あんな母親のもとに生まれてしまったから男児は不幸な事件に巻き込まれてしまったのだと思った。お母さーん、助けて、お母さーん。想像のなかの泣き叫ぶ男児が、四、五年後の波琉と重なり、みぞおちがねじれ、苦しくなったことを覚えている。
玄関の前に波琉はいなかった。
「波琉?」
静まったはずの不吉な気配が鎌首をもたげ、灰色の影を落とす。
知可子は鍵を開けて家に入った。
台所には、冷やし中華の具材を入れた皿が置いてある。すぐに波琉が帰ってくると思い、冷蔵庫に入れなかったのだ。
途切れることのない雨音が、無音の家を四方から圧迫していく。室温が少しずつ下がっていくように感じられ、知可子は両腕を交差して自分の肩を抱いた。
どこに行ったのかしら。
声にしたつもりなのに、自分の鼓膜に届かない。
ああ、そうよ、そうだった。同級生の家に上がり込んでいるはずだって、さっき思ったじゃない。自転車で出かけたから雨がやむまで、帰りたくても帰れないでいるのよ。誰のおうちかしら。翔君、純樹君……哲平君はさっき公園にいたからちがうわね。
電話をくれてもいいのに、とふいに怒りが湧いた。波琉君はうちで預かっています、とひとこと伝えてくれたらこんな心配はしなくて済むのに。まったく常識のない母親が多すぎる。そう思ったところで、自分が外出しているあいだに電話がかかってきたのかもしれないと考えつき、知可子は慌てた。子供が世話になっておきながら、お礼も言わないし迎えにも来ないと呆れられているだろう。母親失格だ、と言いふらされているかもしれない。いますぐ電話をしなくちゃ。
電話台のひきだしからクラス名簿を取り出した。目についた翔君の電話番号にかけようとした。そのとき呼出音が鳴り、知可子の心臓が跳ねた。
「ああ、びっくりした」
声にしてから受話器を上げた。
友高でございます、と告げるよりも先に、「友高さんのお宅ですか?」と男の声がした。はじめて聞く声に、知可子の背筋に緊張が走った。
「はい、そうですが」
自分の声がうわずっていることに気づき、体から空気が抜けていく感覚に襲われた。
受話器越しの男は抑揚を制御した声で、ひとつひとつ念を押すようなしゃべり方をする。知可子の本能が、一瞬のうちに男の言葉を拒絶した。電話を切りたいと思うが、体が凍りついている。男の言葉はばらばらとほどけ、薄れ、遠のき、なにを言っているのか理解できない。それなのに知可子の心臓をわしづかみにして激しく揺さぶる。やがて心臓が落下し、粉々に割れた。
早く気を失わなくては、とすがりつくように思う。
そうじゃないと、これが現実になってしまう。次に目が覚めたとき夢でよかったと思うために、早く気を失わないと。
気を失わないと。気を失わないと。気を失わないと。
知可子は夢をみ続けている。
気を失って以来、どうしても目覚めることができないのだった。
奇妙に希薄な悪夢だ。霧に覆われているかのようにすべての輪郭が曖昧で、永遠に続いているようでも動きを止めているようでもあった。霧は知可子のなかに流れ込み、思考も感情も麻痺させるのだった。
居間のソファに座っている。いつからこうしているのかわからない。目をつぶり、そして開く。自分のなかが空洞であることが感じられ、悪夢からまだ目覚められないのだと知らされる。
ごうっ、と風がうなり、砂粒が窓を叩く。
──風を抱っこしてるの。
波琉の声が聞こえ、知可子は慌てて立ち上がる。悪夢から抜け出せたのだ。そう思ったのは一瞬のことで、知可子の希望を打ち砕いたのは知可子自身だった。空洞からあふれ出すこの嗚咽。この涙。この声。思考や感情から切り離された、からっぽな体の反応。体なんてなくなってしまえばいい。いや、体がなくなれば目覚められなくなってしまう。それはなにより知可子が恐れていることだった。
気がつくと、食卓の前に腰かけていた。右手を動かし、なにかを口に入れている。前歯にスプーンが当たり、金属のやけに生々しい感触にこれが現実なのではないか、と激しい絶望がこみ上げた。目の前には、夫の実がいる。知可子を見つめ、なにかしゃべっているが、その声は知可子に届く前に霧散する。よかった、と知可子は安堵した。やはりこれは夢なのだ。目が覚めると、完璧な巣に戻れるのだ。そこには、息子がいて夫がいて自分がいる。私は安上がりな女。けれど、世界でいちばん幸せな女だ。望むものすべてを手に入れたのだから。
ときおり女の声が聞こえた。母親失格だ、と罵っている。あんな母親だから、あの子は不幸な出来事に巻き込まれてしまったのだ。大切な子供から一瞬たりとも目を離すなんて信じられない。そうまくしたてるのを、知可子は聴覚ではない感覚で受けている。
金色に染めたちりちりの髪が浮かんだ。青いアイシャドーと真っ赤なくちびる、色を塗った長い爪、煙草のにおいがしそうなしゃがれた低い声。テレビカメラの前で涙を流しても、悲しみや恨みの言葉を放っても、しらじらしく映るだけだ。
ふと、この若い母親が自分なのではないかと不安に駆られ、知可子は両手の爪を見た。不潔に伸びているのを認め、深く爪を切ると、からっぽの体からまた涙と嗚咽があふれ出た。また気を失えばいいのだ、と思う。そうすれば次に目覚めたとき、完璧な巣に戻れるはず。
しかし、どうしてもあのときと同じ気の失い方ができないのだった。
食卓にいたはずなのに、いつのまにか布団のなかにいることに気づく。
ふと、異変を感じた。からっぽの体になにかいる。狂おしいほどなつかしく愛おしいその感覚で、知可子ははっきりと覚醒した。
波琉を身籠っているときの感覚だ。加減のない幸福感が腹から全身に行きわたる。流産を繰り返した末に力強く宿った命が、知可子の子宮にしっかりとしがみついている。
やっと悪夢から抜け出せたのだ。
知可子は腹に手を置いた。すると、膨らんでいるはずの腹がぺしゃんこで、短い叫びが漏れた。
そこでまぶたが開いた。