最愛の息子が池で溺死。絶望の淵で知可子は、息子を産み直すことを思いつく。同じ誕生日に産んだ妹に兄の名を付け、毎年ケーキに兄の歳の数のローソクを立て祝う妻の狂気に夫は怯えるが、知可子はいびつな“完璧な母親”を目指し続ける。そんな中「あなたの子どもは幸せでしょうか」と書かれた手紙が……。まさきとしかが紡ぐダークミステリー、『完璧な母親』。最新作『ゆりかごに聞く』の発売を記念して、その一部を公開します。
* * *
布団のなかの右手は腹の上にある。腹の奥には子宮がある、と打たれたように思う。波琉が誕生し、波琉が存在し、波琉が生きた、自分のなかの場所。
隣の布団では、背中を向けた夫が寝息をたてている。
知可子は布団を出て、トイレに行った。下着におりものが付着している。右の下腹部がかすかに痛むのは排卵痛だと思い当たる。
これは波琉からのメッセージだ。悪夢の外側にある完璧な巣から、波琉が呼びかけたのだ。
なぜいままで気づかなかったのだろう。目覚めることができないのならやり直せばいいだけだ。
知可子は寝室に戻った。横向きに眠る夫を枕もとに立って見下ろす。豆電球がともる橙色の薄闇のなか、ゆったりとした寝息が聞こえる。
ふ、と笑みがこぼれた。
そうよ、やり直せばいいだけよ。波琉だってそれを望んでるじゃない。やり直せばいいだけなのよ。
心のなかの自分の声がすぐ耳もとで聞こえ、からっぽの体に熱い血が流れ出すのを感じた。
知可子は立ったままパジャマのボタンをはずし、片手を自らの乳房にあてがい、もう片手をショーツのなかに入れた。指を動かし、足のあいだに子宮とつながる細い穴──母と子だけが共有できる秘密の通り道があることを確かめた。その瞬間、やり直せるという希望が、いますぐやり直さなければ、という激しい焦燥に変わった。
知可子は夫の布団に入った。
「ん、どうした?」
寝ぼけた声を出した夫の肩にしがみつき、そのまま覆いかぶさる。
「おい、どうした?」
繰り返した夫の声は覚醒していた。
知可子は露わになった乳房を押しつけ、夫の性器へと手を伸ばした。
「ねえ」
せっぱつまった息が漏れた。
「どうした、大丈夫か?」
肩をつかんだ夫の手を振り払い、離されまいと必死に体を押しつける。性器へと辿りついた手をせわしなく動かすと、やがて反応が感じられた。
「今日なの」
「え?」
「今日じゃないとだめなの。だからお願い」
夫の体に鳥肌が立ち、小さな震えが走るのを感じた。次の瞬間、夫は体を反転させ、知可子に覆いかぶさった。
*
T市の夏は、勢いをなくした風が行き場を探してさまよう。
湿った熱を孕んだ風が、食卓に座る知可子をねっとりと撫でまわし、台所の小さな窓からそっと抜けていく。
汗がこめかみをつたい、背骨をなぞる。知可子は身じろぎをしない。くちびるの端が上がっている。視線は風にふくらむレースのカーテンに向けられているが、知可子が見つめているのは自らの子宮だった。子宮の存在をこれほど確かに感じられたのは久しぶりのことだった。
自分から夫の体を求めたあの夜、夫が果てたあと、子宮のなかで符合が起こった。着床の予感があったのだ。
その予感は一か月たったいま、確信へと変わっている。生理は十日以上遅れているし、微熱や乳房の張りなどしっくりと馴染む体の変調がある。病院へは行っていないし、夫にも告げていない。知可子と波琉だけの秘密だ。流産の不安は不思議と感じない。たくましい生命力を持った子だもの、今度もまた元気に生まれてきてくれるにちがいない。それでも安静を心がけ、最低限のことしかしていない。夫が留守がちでよかったとはじめて思う。家庭用配置薬の販売員をしている夫は、一昨日から出張中だ。
こめかみをつたった汗があご先に辿りつき、線香花火の玉のように膨らんでいく。汗の粒が落ちる直前、知可子は手の甲でぬぐった。
続いている、と感じられた。あの日で終わったわけではなかったのだ。あんなことが起こったのに、変わらずに風が吹き、朝と夜が交互に訪れ、爪や髪が伸び、排卵する。それはこういうことなのだ。
知可子の確信どおり、子宮のなかの命は根づき、育った。真夏から残暑がおさまるまでつわりがあったが、夫は気づくふうもなかった。
腹の膨らみが隠しきれなくなってきた十月、ソファに仰向けになり、壊れた笛のような風の音を聞いていた知可子は、はじめて胎動を感じた。ぽこぽことやわらかな感覚で、腸が蠕動しているようでもあるのだが、自分のものとはあきらかにちがう。腹に手を当てると、遠慮がちにまた、ぽこぽこした。
──風を抱っこしてるの。
波琉の声が聞こえた。
両手を広げた、頼りないのに勇ましい姿。目をつぶり、にっこりと笑っていた。幸福な光景にふいに強い影が差し、知可子のゆったりとした呼吸が止まる。
一瞬現れたのは、青白い顔だった。冷たく固まった頬と三角形に開いたくちびる、そこからのぞく紫がかった舌。
記憶の底に無理やり押し返そうとしたとき、ぽこぽこぽこ、と腹のなかで動いた。
「波琉」
そう呼びかけると、この名前をまた声にできる歓びに心が震えた。
知可子が夫に告げたのはその夜のことだった。え、と夫は声を詰まらせ、慌てたふうに知可子の腹に目をやった。
「いや、でも……」
つぶやいたきり言葉を失う。
「もうすぐ六か月になるの。ほら、気づかなかった?」
知可子はエプロンをした腹を突き出した。夕食後の食器を洗ったばかりで、膨らんだ部分が楕円に濡れている。
飲みかけのビールをテーブルに置いた夫は、途方に暮れた顔つきで知可子の腹に焦点を合わせている。
「医者はなんて」
「まだ病院に行ってないの」
「どうして」
「私、絶対に産むから」
「でも、あのとき医者に言われたじゃないか。子供はこの子で最後だって、ふたりめを産むのは無理だって」
もちろん知可子も、医者の言葉を覚えている。波琉を身籠ったとき妊娠中毒症にかかり、一時は母子ともに命を失いかけたのだった。しかし、ちがうのだ。子宮にしがみつくこの子は、ふたりめの子ではないのだ。
「波琉が戻ってきたのよ」
知可子は腹に手を添えた。添えただけのつもりが、無意識のうちに撫でさすっていた。夫の目に不安がよぎるのに気づき、笑いかける。
「大丈夫よ。私、絶対に産み直してみせるから」
「頼むよ、知可子。おまえまで失いたくないんだ」
夫は泣き出しそうな顔だ。
「なにも失わないわ。取り戻すだけなのよ」
夫を安心させようと知可子は笑みを広げたが、夫は笑い返してはこなかった。
*
出産予定日を三日過ぎた。
知可子の腹ははちきれそうに膨らみ、手足は曲がらないほどむくんでいる。
「私、まだ産みませんから」
病室のベッドで知可子がそう言うと、「そんなにうまくいかないよ」と温厚な老医師は笑った。
窓から入り込む春の陽射しが白いシーツに陽だまりをつくり、老医師の目はまぶしげに細められている。
いいえ、と知可子は首を横に振った。
「あさってです。あさって産みます。最初からそう決まってるんです」
「そうかい。じゃあ、がんばろうね」
本気にしていないのだろう、老医師は笑みを崩さない。
病室を出ていった老医師を、夫が慌てて追いかける。ベッドの上から眺める廊下は薄暗く、そのせいだろうか、そこに立つ夫は不安に包まれているように見える。それに比べて自分の上にはほら、こんなにきらきらと明るい陽射しが降り注いでいる。知可子は目を細め、くちびるにほほえみを刻んだ。
「妻は大丈夫なんでしょうか」
夫の声が聞こえた。
大丈夫に決まっているのに、と知可子は心配性の夫がおかしくてたまらない。しかし、心配するのも無理はない。夫は男だ。自らの内に命を宿したこともなければ、生まれる前の子供とつながった経験もない。
知可子はむくんだ自分の両手を眺め、腹を、足を見やる。知可子の体をすさまじく変化させた腹のなかの生命力に改めて感動する。
腹にいる子供が女児であることは、数か月前に老医師から知らされた。落胆はしなかった。知可子の子宮に子供が宿っているように、女児のなかに波琉が宿っていることに変わりはないのだから。波琉からつながる命。二日後にこの子が生まれることで、あの夜子宮で起こった符合が証明される。
私はこの子を愛するだろう。腹に手を当て知可子は思う。この子をとおしてもう一度波琉を愛することができるのだ。
二日後の三月十五日。日付が変わった瞬間、知可子は確信した。腹のなかの胎児と目が合い、強くうなずき合った感覚があった。この子も今日生まれたがっているのだ、と鮮やかに感じられ、ぞくぞくとした歓びが体を巡った。
完璧な巣、と思う。私は今日再び、完璧な巣を手に入れる。世界でいちばん幸せな女になる。
早朝、病院の公衆電話から夫に電話をかけた。
「これから産みます」
そう告げると、夫は絶句した。
受話器を置いた途端、ぱちんと弾ける音がして破水した。