最愛の息子が池で溺死。絶望の淵で知可子は、息子を産み直すことを思いつく。同じ誕生日に産んだ妹に兄の名を付け、毎年ケーキに兄の歳の数のローソクを立て祝う妻の狂気に夫は怯えるが、知可子はいびつな“完璧な母親”を目指し続ける。そんな中「あなたの子どもは幸せでしょうか」と書かれた手紙が……。まさきとしかが紡ぐダークミステリー、『完璧な母親』。最新作『ゆりかごに聞く』の発売を記念して、その一部を公開します。
* * *
波琉の一歳のときの誕生日プレゼントが、知可子にはどうしても思い出せなかった。もしかすると、なにもあげなかったのかもしれない。積み木と消防車のおもちゃは、どちらが先かは覚えていないが二歳と三歳のとき。四歳のときは自転車だった。五歳のときは波琉と一緒にデパートに行き、子供用ポラロイドカメラを選んだ。六歳のときはまた自転車。波琉が新しいものを欲しがったのだ。
残っているものはひとつもない。子供は波琉だけだと思っていたから、使わなくなった積み木も小さくなった自転車も壊れたポラロイドカメラも捨ててしまった。六歳のときに買った自転車は捨てた記憶はないのになくなっている。夫が処分したのかもしれないが、いまだに確かめてはいない。
七歳の誕生日プレゼントだけが抜けてしまった。しかし、新しい命をプレゼントしたのだ、といまではそう思うことができる。
八歳になる波琉の誕生日には小さな地球儀を選んだ。
一歳になる波琉子にはクマのぬいぐるみを買ってある。
「マーマ」
ローテーブルにつかまり立ちした波琉子が、あまやかな声をあげた。おむつで膨らんだ尻を機嫌よく振りながら、知可子にまっすぐな笑顔を向けている。
「はあい、ママですよ。なんですか? はるちゃん」
洗濯物をたたむ手を止め、知可子は娘をのぞき込んだ。小さなくちびるの端によだれをきらめかせている。
「マーマ」
「はあい、ママですよ」
波琉子の最初の言葉は「ママ」だった。十か月を過ぎたころだった。波琉がはじめてしゃべったのも「ママ」だった。ママではなくマンマかもしれないと思ったのも、それでも母親の自分を呼ぶ言葉だと強引に解釈したのも同じだ。
ベランダの大きな窓から入り込むやわらかな陽射しが、波琉子のまつ毛の先に金色の粉をふりかけている。透明感のある黒い瞳は、その純粋な力で光をはね返すかのように輝いている。
波琉と同じ目だ。そう感じるたび、知可子は何度でも胸を突かれた。知可子には、波琉子の瞳の奥にいる波琉が見えるのだった。波琉子が笑えば波琉も笑い、波琉子が泣けば波琉も泣く。しかし、ほんとうはそうではなく、波琉が波琉子を笑わせたり泣かせたりしているように映った。
波琉子は母親の顔を愉快げに眺め、尻を上下に弾ませながらきゃっきゃと笑い声をあげている。杏のような頬が幸福の象徴に見え、望むものすべてをまた手に入れた、と知可子は自分に言い聞かせた。
娘が生まれてまもなく、友高家はT市を離れた。それに伴い、夫の実は職を変え、配置薬販売員から事務機器メーカーの営業になった。
このまちに風は吹かない。マンションの三階から見える山は遠く、霞みがかっている。空の色は薄く、陽光は穏やかで、風景が間延びして感じられるのは、風が吹かないからだろうか。
波琉子の一歳の、波琉の八歳の誕生日を、今日迎えた。
一年前のあの日、日付が変わった瞬間の感覚は、知可子のなかにありありと刻まれている。必ず今日生まれてくると改めて確信したが、そんなことはとうに知っていることでもあった。夫に電話をかけた四時間後、波琉子が生まれた。激しい痛みが愛おしかった。大きな力が与えてくれた祝福だった。誕生した子供は、知可子に望むものすべてを再び授けてくれた。産声をあげる子供を見つめ、この子は大丈夫、と知可子は心底から信じられた。
この一年間、すこやかに育つ波琉子のなかで、波琉もまた時間を取り戻した。
ただ、ときおり知可子を苦しめたのは、金髪の女だった。縮れた金髪を肩に垂らした爪の長い女がどこからともなく知可子の頭に忍び込み、居座った。母親失格だ、と罵る声が聞こえ、しかしその声は金髪の女ではなく、知可子自身が発しているのだった。女にこの体を乗っ取られるのではないかと恐怖し、不安と混乱がなみなみと水位を上げたとき、知可子は娘の黒い瞳を見つめ、その奥の波琉の存在を確かめた。そして短く切り揃えた自分の爪に視線を落とし、世界でいちばん幸せな女だ、とときに声に出し、ときに心のなかでつぶやくのだった。
誕生日の夜、夫が帰宅したのは八時過ぎだった。
お祝いの準備はできていた。ローテーブルには、スポンジから焼いたいちごのケーキ、ひと口ハンバーグとオムライスとフルーツサラダを盛りつけた波琉子のプレート、夫のための刺身と鶏の唐揚げ、のり巻きと冷やし中華がのっている。
「お、豪華だな」
ネクタイをゆるめながらテーブルに向けた夫の目が、ケーキの上で止まる。なにか言いたげにくちびるが動いたが、言葉を発することはせず、寝室に入りスウェットの上下に着替えてきた。
夫がローテーブルの前にあぐらをかくのを待って、知可子はケーキのろうそくに火をつけ、部屋の照明を消した。おー、と波琉子が驚いた声をあげる。
ろうそくは八本ある。身震いするような八つの炎の揺れが、自分の顔に光と影をちらつかせ、潤んだ瞳を膨らませたり小さくさせたりするのを知可子は感じた。
「……なあ」
夫のとまどった声が聞こえたが、知可子は、ハーピバースデートゥーユー、と歌い出した。腕のなかの波琉子が、あーい、あーい、と楽しそうに声を合わせ、夫は手拍子をはじめた。
ハーピ、バースデー、ディア、はーるちゃーん。
永遠にこの瞬間が続けばいい、と願いながらも、成長していくさまが待ち遠しくもあった。息子の誕生日をまた祝えたことに、知可子の瞳から温かな涙があふれ出す。
知可子がろうそくに息を吹きかけると、波琉子も真似て、ふう、と口を尖らせた。
「波琉、波琉子、お誕生日おめでとう」
知可子が言ったとき、部屋の照明がついた。
「さあ、もういいだろ? 食べよう食べよう」
夫の声は暗闇の余韻を振り払おうとするかのように不自然に明るかった。
知可子がふたつのプレゼントを差し出すと、波琉子は、ばーぶ、ぶぶぶ、とあぶくの混じった声を発しながら、包装紙に両手をかけた。緑色のリボンがついた包みからは小さな地球儀が出てきた。赤いリボンのほうからは、クマのぬいぐるみ。波琉子は床にぺたりと座り、地球儀をまわしはじめた。
「波琉」
無意識のうちに呼びかけていた。
地球儀をまわす手を止め、波琉子が顔を上げる。
「ねえ、波琉。嬉しい? 地球儀、欲しかったでしょう?」
波琉子はどこか不思議そうに母親を見つめ、やがて「マーマ」と笑顔を弾けさせた。
知可子は波琉子を抱き寄せた。痛いのか驚いたのか波琉子が泣き出したが、「波琉、波琉」と湿った声を止めることができない。
「ねえ、はるちゃん。一歳のときの誕生日プレゼント、なんだったかしら。覚えてない?」
その問いに答える者はいなかったが、知可子は幸福だった。自分の声が届いていると感じられた。血のつながりはすごいと思う。ただ、わかるのだ。通じ合えるのだ。一年前の今日、三月十五日に日付が変わった瞬間、腹のなかの胎児と目が合い、強くうなずき合ったように。
現実を超えた場所で、五感より確かな感覚で、いちばん大切な者とつながることができる。
もうすぐ波琉子の六歳の誕生日がやってくる。
波琉は三歳ごろまでよく高熱を出したが、波琉子は手のかからない子だった。母親を不安にさせることなくすくすくと成長し、ぐずることも泣くことも少なく、癇癪を起こすこともなかった。そのさまは、まるで七つ上の兄にたしなめられ教えられながら育っているようだった。
「はるちゃんのなかには、お兄ちゃんがいるのよ」
スーパーからの帰り、春めいた陽射しのなかで知可子は言った。
「うん、知ってるよ」
「お兄ちゃんがいるから、はるちゃんがいるのよ」
「お兄ちゃんがいなかったら、はるちゃんもいなかったんだよね?」
波琉子は母親の言葉を引き継ぎ、顔を上げて笑いかける。
「そうよ、そうなのよ」
知可子がつないだ手を大きく振ると、波琉子はスキップをはじめた。
ゆるやかな坂を上るとつきあたりに、夫が言うところの税金対策のための畑が広がり、その奥に黒い瓦屋根の屋敷が建っている。知可子たちが暮らすマンションは、畑の手前を右に曲がった場所にある。エレベータのない四階建てだ。
正面から土のにおいがする風が吹いた。
「風」と波琉子は弾む声を出し、つないだ手をぱっと離した。目をつぶり、両手を広げ、風、風、風、と笑いながら、くるくるとまわり出す。
「なにしてるの?」
知っているのに訊ねずにはいられない。
「風を抱っこしてるの」
くるくるまわりながら波琉子が楽しそうに答える。
このまちは、あまり風が吹かない。それでもときおり、自然と目が細まるほどの風が吹きつけ、そのたびに波琉子は「風っ」とはしゃぎ、両手を広げてまわり出すのだった。「なにしてるの?」と知可子が聞き、「風を抱っこしてるの」と波琉子が答えるのもいつものことだ。
波琉子をとおしてはじめて波琉の声を聞いたときのことを、知可子は何度でも鮮明に思い出す。
あれは波琉子が三歳になったばかりのころだった。ちょうどこの坂をいまとは逆に下っているとき、このまちはあまり風が吹かなくてつまらないでしょう、と二、三歩前を飛び跳ねる幼い後ろ姿に聞いた。振り返った波琉子は、ううん、と答えた。つまらなくないよ。
だってはるちゃん、風を抱っこするのが好きだったじゃない。
そう言って知可子は、ほらこうやって、と両手を広げ、目を閉じた。
うん、好き!
その声に、知可子ははっと目を開けた。
鼓膜を震わせたいまの声は波琉のものだと確信した。
三歳になったばかりの娘は、目をつぶり、両手を広げている。かん高い笑い声をあげながら、やがてその場でぎこちなくまわりはじめた。
なにしてるの? そう聞かずにはいられなかった。
風を抱っこしてるの。
思ったとおりの言葉が返ってきた。
しゃがみ込んだ知可子は、波琉、波琉、と愛しい子供の名前を呼び続けた。
お母さん? と小さな手が頭にふれた。
波琉子はまだ、お母さん、ときちんと発音できない。それなのに、そっと手渡されたその声は明瞭だった。
ほんとうにいるの? そこにいるの?
知可子は、子供を強く抱き寄せた。
うん、ここにいるよ。
揺るぎない声に、知可子の震えが一瞬止まった。
助けてあげられなくてごめんね。今度は絶対に守るからね。
そう告げると、震えが激しさを増して戻ってきた。
はるちゃんはお母さんのことが好き?
一日に何度も口にするその問いを、知可子は声に上らせた。
うん、大好き。
お母さんは、いいお母さん?
うん、いいお母さん。
目の前の子供と知可子だけを切り抜き、風景が遠のいていった。あのとき、現実の外側にある母子だけの世界で、知可子と波琉は確かに言葉を交わしたのだった。
そのときのことを思い出し、知可子は「そうよね、はるちゃん」と笑いかけた。
「なあに?」
波琉子が無邪気に聞き返す。
「ううん、なんでもないのよ」
知可子がつないだ手を揺らすと、波琉子は笑いながらさらに大きく揺らし返した。