新聞社で働く柳宝子は、虐待を理由に、娘を元夫に奪われていた。ある日、21年前に死んだはずの父親が変死体で発見される。宝子は父の秘密を追うことになるが、やがてそれは家族の知られざる過去につながる。一方、事件を追う刑事の黄川田は、自分の娘が妻の不貞の子ではないかと疑っていた……。『完璧な母親』などの作品で根強いファンを持つ、まさきとしかの最新作『ゆりかごに聞く』。その発売を記念して、一部を公開します。
* * *
「私のことは……わけあって会えない娘がいるって言ったのはそのときですか?」
いや、と男は首をひねる。
「それは最近だな」
「……最近」
「っていっても、半年前くらいかな」
妻が死んだと泣きじゃくってからも、そんな夜などなかったかのように鈴木和男は寡黙だったという。寮では酒を飲むようになったが、仕事仲間と夜のまちに繰り出すことはなかった。
「スーさんが仕事以外で外出するのって、月に一回あるかないかじゃなかったかなあ。自分のことは全然しゃべんないし。だから、やっぱり追われてるんだとか逃げてるんだとか噂されてたなあ」
それが半年ほど前から、酔っぱらうと昔の話をするようになったという。
「ああ、そうだ。亡くなった日、スーさん珍しく朝早くに出かけていったんだけど、途中で具合悪くなったみたいで帰ってきたんだよな。あの日は朝から体調が悪かったのかもしれないなあ」
「父はどこに行こうとしたんですか?」
「それはわかんないけど。こんなこと言っちゃ悪いのかもしれないけど、スーさん、自分の寿命を薄々感じてたんじゃないかなあ」
「娘に会えない理由を言ったことはありませんか?」
「いや。ただ、自慢の娘だ、って」
その言葉で記憶の蓋が一気に開いた。
自慢の娘──。それは父の口癖のようなもので、なんの脈絡もなく言うことが多かった。テレビの野球中継を観ているとき。家族で買い物に行ったとき。宝子が学校での出来事を話しているとき。父は大切なことを思い出したようにふと宝子を見つめ直し、ときに頭に手を置き、ときに感極まったような顔をして、お父さんの自慢の娘、とほほえみかけた。
自慢の娘──。忘れていたはずの父の声がよみがえった。それはすぐそばから聞こえたのではなく、風にのって流れてきた遠くからの声だったが、宝子の頭のなかでみずみずしく響いた。
寮を出ると、夜が一層深まったようだった。腕時計に目をやり、まだ六時半だと知る。
寮の背後には黒い切り絵のような針葉樹の林、片側一車線の道路の向こうには瓦屋根の民家と荒涼と広がる畑。これが父が十年間見ていた風景なのだ。そう思うと、父の心のどこかにこの風景と似た暗みが存在していたような気がしてならなかった。
父が倒れていた神社は、寮から歩いて十分ほどのところにある。
風が冷たい。どこかで野焼きでもしたのだろうか、空気に焦げ臭さが混じり、秋の虫が鳴いている。
片側一車線の道を歩いていくと、宝子が向かう方向に白く大きな月があった。ほの白い月あかりとまばらな街路灯に照らされながら、父の最期に想いを馳せた。いま自分は父と同じ道を辿り、同じ場所に向かっているのだと嚙みしめた。
さびしい、と感じたが、それが自分の感情なのか、父の気持ちを想像したものなのかはわからなかった。
木々にまぎれるような小さな鳥居を見つけた。幅の狭い石段が続いている。石段を照らす外灯はないが、月あかりで上ることができた。上に行くほど四方から静寂な闇が迫ってくる。
石段を上り切る数段手前で足を止めた。父が倒れていたのは、石段を上り切ったところだった。おそらく石段のいちばん上に腰かけ、カップ酒を飲んでいたのだろう。
そこに父の名残がないか、宝子は目をこらし、感覚を研ぎ澄ませた。
そこだけがほのかに発光している気がする。最後の息が空気に混じっている気がする。父の視線を感じる。すべてこじつけだと自覚していた。
宝子は石段のいちばん上に腰かけた。
瞳に映る風景は灰色の濃淡だ。濃灰色の畑、漆黒を溜め込んだ林、墨色の瓦屋根。まばらなあかりは弱々しく、夜空が奇妙に明るく見える。
のけぞるように空を仰いだ。藍色の空を、小さな雲がゆっくりと流れている。ずっと見上げていると、空が下りてくるようにも、自分が昇っていくようにも感じられた。
父もこうして夜空を眺めたのだろうか。天に吸い込まれるように旅立ったのだろうか。
さびしい、とまた思う。
宝子は顔を戻し、まっすぐ前に視線を向けた。
眼下に広がる濃灰色の畑は夜空と溶け合い、境界線が塗り潰されている。夜に沈んだ地上の遠くに、すっと小さなあかりが現れた。黄みがかったあかりはちらちらと揺らめきながら、やがてふたつになり、寄り添うように左から右へゆっくりと流れていく。遠くを走る車のヘッドライトが、蛍の光のようにも人魂のようにも見えた。
携帯の着信音が鳴り、現実に引き戻された。
「今度の日程は決まった?」
携帯を耳に当てると、浩人の声が耳に飛び込んできた。
彼が、いま大丈夫? 話して平気? といった言葉を省略し、いきなり用件を話すようになったのはいつからだろう。
あ、と声が出たきり、あとが続かない。
いまこの場所で、浩人の声を聞いているのが不思議だった。まるで、夢のなかに現実の音が入り込んだようだ。
「早めに聞いておかないとこっちにも予定があるからさ」
浩人が言っているのは、愛里との二ヵ月に一度の面会交流のことだ。
「あ、うん。今月末の土日はどうかな」
宝子は言葉を繕った。
「調整してまた電話する」
「あ」
「なに?」
「愛里は変わりない?」
「ああ。代わろうか?」
宝子が「お願い」と言ったのと、携帯から「いいよ」と聞こえたのは同時だった。
「代わらなくていいって言うからこのまま切るよ」
浩人は隠すことなく告げ、通話を切った。
──いいよ。
乾いた、面倒そうな声が鼓膜に張りついた。
愛里は見透かしているのだと思った。私が自分のことしか考えていないことを。心のなかに無感情なまなざしを持っていることを。
車のヘッドライトはもう見えない。
妊娠しているとわかったとき、嬉しさはまったくなかった。
嬉しさだけではなく、驚きも戸惑いも感じなかった。ただ、「あー」とだけ思った。感情らしいものが芽生えなかったことに宝子はうろたえた。
二十四歳になったばかりだった。まだ浩人と結婚してはいなかったし、結婚したいと思ってもいなかった。
どうすればいいのか決められず、浩人に告げると大喜びし、すぐに籍を入れることになった。そのときも、「あー」と思った。あー、私は結婚するのだな、子供を産み、母親になるのだな。自分の意思とは関係なく、周囲がつくる流れにのってどこか遠くへ流されていくようだった。
こういうものなのかもしれない、と自分に言い聞かせた。まだ実感が湧かないだけだ、時間とともに芽生える感情があるはずだ、と。
その真裏で、これでいいのだろうか、と思いはじめてもいた。
宝子は、母親になることでできなくなることを数えた。真っ先に浮かんだのは仕事だが、一年間の産休育休後に復帰することを決めていたし、浩人も、浩人の両親も反対はしなかった。旅行すること。飲みに行くこと。友人と会うこと。そのほかできなくなることを思いつくまま挙げていったが、もともと会社と自宅を往復するだけの日々だった。
だから、なにも変わらない。いや、変わるけれど、失うものも、あきらめるものもない。これは喜ぶべき変化なのだ。
それでも、取り返しのつかない流れにのって、本来の人生から大きくそれていくようだった。自らの内の命が育っていくにつれ、その感覚は強くなっていった。
漠然とした、けれど抗いようのない違和感。誰にも言ってはいけないと思った。言えば、軽蔑され、母性の欠如を指摘され、人間性を疑われるだろう。生まれてくる子供がかわいそうと陰口を叩かれるだろう。
ずっと胸に秘めていたが、産休に入る直前、仕事で知り合った年上の女性にぽろりと漏らした。NPOの代表で、三人の子供がいる彼女は、「わっかるー」とあっさり答えた。
「私なんか最初の子の妊娠がわかったとき、まじかよー、嘘だと言ってくれー、って思ったもの。産むことにしたんだけど、つわりはひどいし、頭は痛いし、ムカムカは続くし、骨盤は割れそうになるし。つらかったり、痛かったりするたび、くっそーこいつのせいだ、ってお腹の子にむかついたもの。もう産むのやめたいって何度思ったことか。仕事が大変だったせいもあるしね」
からっと笑う彼女に救われる思いがした。
でも大丈夫だから、と彼女は続けた。
「産んだらかわいいから。っていっても、私なんか産むときも痛くて痛くて、てめえ早く出てこい、って怒鳴ったものね。それがいまじゃ三人の子持ちだもの、笑っちゃうよね。あなたはまだ若いから、たぶん現実に気持ちが追いついてないだけだと思うわよ」
彼女の言ったとおりだった。
生まれてきた子はかわいかった。こんなにかわいい子の母親であることが誇らしかった。
私の子供。私が産んだ子。なんて小さいんだろう。なんて貴いんだろう。何度もそう思ったことを覚えている。
いまとなっては、なにが本心だったのかあやふやだ。
かわいい、大好き、私の子。そう語りかけるとき、愛里にではなく自分に言い聞かせてはいなかったか。心に隙ができないように、そこに別の感情が入り込まないように、必死に唱えていなかっただろうか。
生まれるまでは不安だったけど、産むとやっぱりかわいいね。病院で知り合った母親にそう言ったとき、そんなことない、かわいいと思えない、と返ってくるのを期待していなかったか。
ほかの母親たちのように、生まれてきてくれてありがとう、と語りかけようとすると、そらぞらしくならなかったか。
どんな気持ちになるのが正解なのか、宝子はわからなかった。
昼夜関係なく泣かれても、なにをしても泣きやまなくても、洗濯したてのシーツが吐瀉物にまみれても、授乳中に乳首を嚙まれても、どんなときでもなにをされても、心の底からかわいい、愛おしい、と思えるのが母親としての正解なのだろうか。
いまでも正解がわからない。ただ、自分が不正解の母親であることは疑いようがなかった。
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ゆりかごに聞く
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