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僧侶、家出する。

2019.06.07 公開 ポスト

第1回

竹原ピストルは僕なんかよりもずっと「僧侶」だった稲田ズイキ(僧侶)

 

京都のお寺の副住職で、コラムニスト・編集者としても活躍中の稲田ズイキさん。そんな僧侶が、なんと「家出する」と宣言。この連載は、「僧侶」という立場に虚無を、「寺」という場所に閉塞感をおぼえた27歳の若い僧侶が、お寺を飛び出し、他人の家をわたり歩き、人から助けられる生活の中で、一人の人間として修行していく様子をほぼリアルタイムに記録していくというものです。気になった人はどうか、稲田さんをお家に泊めてあげてください。

 

*  *  *

 

家出することにした。

僧侶だから、もう出家は済んでいる。だから、出家のち家出である。

 

連載の第1回目ということで、今回は僧侶である自分が「なぜ寺を出て、定住しない決断をしたのか?」について書こうと思う。

 

 

「僧侶」として生きる虚無感

普段は「僧侶で~す」と明るく振舞ってても、心の中では、湯切りのできていないカップ焼きそばのような、ジメジメとしたやるせなさが残っていた。

毎日、自問自答している。「僧侶は必要な存在なの?」って。

一体、何ができるんだろう。

 

何か悩み相談をしたいなら、カウンセラーの先生とこに行けばいいし、なんだったら好きな芸能人のラジオ番組にお悩み相談すればいい。

「除霊して」なんて言われても、こちとら霊感はゼロ。っていうか、除霊の仕方とか修行で習ってないんだけど! って感じだし。

唯一の見せ場であるお葬式も、最近は僧侶なしの「家族葬」が増えていて、未来のことを考えるだけで、ヒィって声が出る。

 

実は、日本の僧侶の人口はおおよそ35万人で、警察官の人口よりも多い。(平成30年版宗教年鑑、総務省HPより)

えっ、マジで? そんなにいんの? って感じだ。

それなら「半分くらいは警察官になった方が日本のためになるんじゃないの?」なんてことも考えてきた。

 

自虐的に聞こえるかもしれない。

でも、同世代の20代の僧侶と話せば、同じようなバイブスを感じていることがわかった。

 

「僧侶はこの時代に必要とされていない。ましてや未来にも」

 

いつのまにか、そんな前提の世界観で生きていた。

5年くらい前、僕が初めて修行に入ったとき、指導員の先生に言われた言葉が今も忘れられない。

「よくこんな時代に君たちは僧侶になろうと思いましたね!」

 

ホント、なんて時代に僧侶になっちまったんだよ!!!! 

 

「仏教を伝える」危うげな使命感

虚無感をぬぐいきれなかったからか、僕は知らない間に「仏教を伝える」という使命にたどり着いていた。

仏教とは、苦しみと向き合うための「生き方」を説く思想。

だったら、この思想を現代に広めることが僧侶としての存在意義なんじゃないか? 

 

そう思って、2018年の4月からフリーランスのライター・編集者として、少しでも興味を持ってもらえるように、あの手この手を使って仏教を伝えるコンテンツを企画してきた。

なんともハッピーなことに、27歳の若僧なのに、この幻冬舎をはじめ、文春や集英社など、大手の出版社さんで、連載を持たせてもらったりしている。Twitterでも率先して仏教のアウトプットを続けてきた。

 

 

なんか、生きてる価値があるような感覚になった。

自分は「仏教を現代に伝え続けるメッセンジャーだ!」って。

 

でも、仏教系Webマガジンの編集長に就任したとき、ふと立ち止まって考えたのを覚えている。

 

なんで、メディアまで作って、仏教を伝える必要があるの? 

本当に、仏教を伝えたらこの世界はハッピーになるの? って。

 

SNSには、仏教の知識や画一的に決めた信仰の有無で他人にマウントをとる人たちで溢れている。

おいおい、僕のやっていることって、むしろ世界に余計なマウントの構造を作っているだけなんじゃないだろうか……? 

 

苦しみを取り除くのが仏教の目的なら、今すぐ日雇いアルバイトをして、稼いだお金を青年海外協力隊とかWHOに寄付した方がいいんじゃない? そっちの方が苦しみを救えるんじゃないの? 

 

でも、そうしようとしないのって、もしかして……

 

自分のために仏教を伝えてるんじゃないの? 

僧侶っていう虚無感を埋めたくて仏教を伝えてるんじゃないの? 

 

「おおおああああああああああhcイオウェxjqwぁgふいへwクィモpd」

 

と、声にならない叫びを布団の中でぶちまける。

目をつむれば、湧いてくるキリのない問いかけを、捨てて、捨てて……そんなプチ坐禅な毎日。

 

竹原ピストルははるかに「僧侶」だった

「あっ こりゃ走馬灯化、決定~☆」

と思うような、人生で5本の指に入るくらいショッキングな出来事があった。

 

当時お付き合いしていた彼女から突然電話がかかってきた日のこと。

口ぶりから相手が「普通ではない」状況なんだと一瞬でわかった。

 

「お父さんが……ガンになって……どうしたらいいの私……」

 

彼女は涙を流し、僕に助けを求めてきた。藁にもすがる思いだったと思う。

突然の電話にうろたえたけど、なんとかして彼女の苦しみを取り除いてあげたい。代わってあげられるなら代わりに苦しみを引き受けたい。そう思った。

でも、気持ちとはうらはらに、かける言葉を見つけられなかった。

 

「どうしたらいいの?」

 

そんな問いの答えはどこにもなかった。

どうすれば? どうすれば彼女の苦しみを取り除けるの? 

分からなかった。想像ができなかった。

 

それどころか、こんな時に仏教の知識が頭に浮かんできて、

「諸行無常だよ」と言ってしまいそうになった自分がいた。

 

「人はいつか死ぬ」

そんな風に受け止められる言葉を、目の前で涙を流している人間に言ってしまいそうになったのだ。

僕は完全に「パブロフの犬」になっていた。

電気ショックを与えられたら、よだれを流す犬のように、苦しみを聞いたらまるで切り札を切るかのように、仏教の知識を披露するバカな犬になってしまっていたのだ。

 

そんな自分が腹立たしくて、悔しくて、無力で、涙が出た。

たぶん、彼女が欲しかったのは、そんな頭だけで理解してきた上っ面の「知識」なんかじゃなかった。なんでこんな時まで僧侶の自我と僕は戦っているんだろう。そんな場合じゃないのに。涙を流しているのは彼女なのに。

自分がいかに「分かった気になっている」のか、痛感した。

仏教を勉強して、生き方を説いてきたはずの自分が、助けを求めてきたたった一人の人間に寄り添うことができなかった。

僧侶という身分にあぐらをかいて、仏教という知識に脳を負かせて、相手の痛みを想像することができなかったのだ。

 

「あなたを蝕むがん細胞をぶっ殺してやりたい」

ミュージシャンの竹原ピストルが、ガンになった友達のために作った曲でそう歌っていた。

こんなに強い言葉を吐いているのに、竹原ピストルは僕なんかよりも、ずっと優しかった。涙を流している人の気持ちを噛み締めて泣いていた。

 

竹原ピストルは僕なんかよりも、はるかに「僧侶」だと思った。

 

この歌に比べて、僕のお経なんか、説法なんか、なんの意味があるんだろうか。

うんこ以下の価値だ。届けたい相手のいない言葉に命が宿らないことは、文筆家の一人としても痛いくらいにわかる。

自分のために仏教を伝えているというエゴ。僧侶という身分に甘えた思考停止。

そのすべてがやるせなくなって、バカバカしくなった。

 

何にもわかっていなかったのだ。

存在意義に駆られ、何者かになろうと焦り、ただ不安定な自分を埋め合わせるために、仏教を手にしていたんだろう。自己を拡張してきたのだろう。

 

今、強く思うのは、「誰かのための」何者かになりたいということ。

存在意義だとか生きる意味だとか、そんなの「ファミチキが旨い」くらいでいいじゃないか、俺。

それよりも、目の前の「痛み」に手を差し延べられるような人に、僕はなりたい。

 

悟ったフリをせず、分かった気にもならず、共に相手の苦しみを悩み、共に痛みを分かち合えるような僧侶。それが僕の思う僧侶だ。ライバルは僧侶である自分。

意味も虚無も超えて、今は誰かのためにこの身を委ねたい。

お寺に坐臥して、スクリーン越しから発信し続ける自分に何ができるだろうか。

今にも死ぬ気で生き抜こうとしている現代人の心に寄り添うことなんてできるのだろうか。

「悩んでいる人はお寺に来てください」なんて、今の僕には言えたもんじゃない。

身体と身体、心と心。見栄も恥もすべて捨てて、むき出しになりたい。そして、話がしたい。もっと…もっと人に会わねば! 

 

だから、「修行」と題して、家出することにした。

自身の「居場所」への執着を捨てて、自分を含めた「他者」とのハッピーを模索する利他行。

これが「出家のち家出」を決意した一つ目の理由。二つ目は長くなるから、次回書く。

 

僧侶、今日から家出する。

(1年間1日200円で居候させてもらっていた友達の家)

この文章が出たタイミングで、僕は家出を始めることになる。

実家の寺も、居候していた東京の友達の家も出る。

家もない。お金もない(この1年の月収平均8万円)。

だから、1日でもいいから泊めてくれる人を探す。

 

「甘えんじゃねぇ」と言う人がいるかもしれない。

でも、そんな「弱さ」が誰かとつながる縁になるんだと信じたい。

 

自分の修行に付き合っていただける方、あわよくば救ってくれる方に僕は出会いたい。

もし誰も救ってくれないなら、東京の地下でネズミと一緒に暮らすからそれでいい。

(未だかつて木魚を持ち歩く僧侶がいただろうか)

とりあえず、日常用品と寝袋と袈裟と木魚だけカバンに入れた。VRゴーグルは実家に置いていくことにする。

 

なにやら、昔の僧侶は「遊行(ゆぎょう)」といって、家も物もすべて捨てて、全国を旅しながら仏道修行に励んでいたらしい。空也(くうや)や、一遍(いっぺん)というお坊さんが有名。

そんなパイセン僧侶たちは、旅先で出会った人から施しを受けて、その代わりに仏法を説いて暮らしていた。

中でも、踊り念仏といって、街中でリズムを刻み、自分も他人も溶け合うトランス空間の中で、街の苦しみと共に踊っていたと言われる。なにそれ、かっこいい。

 

僕には一体なにができるんだろう。シティ説法、出会い系説法……。

この修行を続けていく中で、見つけたいと思う。

 

さて、長い修行の旅の、はじまりはじまりーーーーー

 

*  *  *

 

なぜ稲田さんは家出をして、人の家を渡り歩くのか。次回、「お寺で生きる閉塞感」と続きます! もし稲田さんを泊めてあげてもいいと思った方は、稲田さんのTwitterにDMを送信してみてくださいね。

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僧侶、家出する。

若手僧侶がお寺や僧侶のあり方に疑問を持ち、「家出」した!

さまざまな人に出会うこと、それ自体が修行となると信じ、今日も彼は街をさまよう。

(アイコン写真撮影:オガワリナ)

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稲田ズイキ 僧侶

僧侶。1992年京都のお寺生まれで現・副住職(※家出中)。同志社大学を卒業、同大学院法学研究科を中退、その後デジタルエージェンシー企業インフォバーンに入社。2018年に独立し、仏教を楽しむコラム連載など文筆業のかたわら、お寺ミュージカル映画祭「テ・ラ・ランド」や失恋浄化バー「失恋供養」、煩悩浄化トークイベント「煩悩ナイト」などリアルイベントを企画。フリースタイルな僧侶たちWeb編集長。

Twitter:@andymizuki

過去の執筆・出演記事はこちら

(写真撮影:オガワリナ)

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