家族のため仕事に邁進して来た俊介だが、気づくと家庭は崩壊していた。冷えきった夫婦関係、フリーターの息子にイマドキのムスメ……そして、厳格だった父は惚け始めてしまった。家族を、そして父を取り戻すため、俊介はワゴン車にみんなを乗せ、父の故郷・福井へ向けて旅に出る……。ミュージシャン、さだまさしさんの『サクラサク』は、涙なしには読めない家族小説。部数は75万部を突破、2014年には映画化もされました。そんな本書の冒頭を、少しだけご紹介しましょう。
* * *
「敦賀のな、海のそばのお寺の離れで暮らしたことがあるんだよ」
今年八十になる父が、今まで一度も口にしたことのない町の名前を言った。
「どこ?」
「敦賀だよ」
「つるが……?」
「知らんか? 福井県の敦賀だよ」
「いつ?」
「三、四歳の時だ」
「へえ」
俊介はまじまじと父の顔を見た。
元気だった父が急におかしくなったのは昨年の晩秋のことだ。
風が肌に染みるような気温の低い晴れた朝、思い立って髙島屋へ何やら買い物に行く、と一人で出かけたきり、戻らなかった。
そのことを俊介が知ったのは帰宅してからで、深夜十一時を回っていただろう。
いつもなら俊介が車庫入れをする車の音を聞けば、わざわざ二階の自室からダイニングに下りてきて、必ず、やあ、おかえり、と言うはずの父の姿が見えなかった。
それからいつも父は俊介の遅い夕食につきあいながら晩酌をする。それがまあ、父の日課といってもよかった。
三年前に妻、つまり俊介の母が死んで以来、普段は話し相手もいない。
趣味といっても仕事一筋で生きてきた世代の父には、本を読むか散歩をするほかにないらしく、日々窮屈そうに、己をもてあまし気味に暮らしているようなところがあった。
その日、姿の見えない父を不審に思った俊介は妻の昭子に「親父はどうした?」と訊いた。
昭子は無表情に、さあ、知らない、と答えた。
「冷たいことを言うなあ」
俊介はわざと大きく舌打ちをしてみせるが、昭子は一向に堪えない。
こちらを振り向きもせず、狭いダイニングのテーブルの角に腰掛け、斜に構えた姿勢のままで逆にテレビのボリュームを上げる始末だった。
俊介はため息をつきながらそのまま二階の父の部屋へ上がった。
父の姿はなかった。
明かりを点けてから改めて眺めてみると、きちんと整頓してある父の部屋は、なんとも冷え冷えとし、妙にがらんとしている。
そういえば母が亡くなった後に、父の部屋をゆっくりと訪ねたことなどなかった気がする。
心の奥に痛みが走った。
父はどこへ行ったのだろうか?
俊介の胸に微かな不安がよぎる。
事故に巻き込まれたのではないか?
こういうとき、世間ではどうするのか?
いわゆる捜索願、というものを出すのだろうか。だが一体それは、どんなタイミングで、どういう手順で、どこへ行き、どのようにして出すのだろうか。
この歳になって、そんなことすらよく知らない自分に驚いた。
それに、最悪のことも考えておかねばならないかもしれない。
父が事故に遭って怪我をしたり、事によれば死んでしまうことだって考えの中に入れておく必要がある。
ふと、父が死ぬ、という想像が、極めて現実的なイメージになって俊介の頭をかすめた。
この歳になって、まだ父が元気だというのは幸福なことだろうが、おかげで却って自分自身は「子供」の心根から抜け出せないところはあるだろう。
いずれその日が来ることは頭の中では分かっているが、人はなかなかに現状を超えた想像はできないもののようだ。
だが、父にもしものことが起きた場合、どこへどういう手順で手配をするのかの段取りや、また、自分の仕事の都合をつける必要もある。
事ここに至り、俊介は初めて戦慄した。
階下に下りてダイニングへ戻れば、相変わらずふてくされたようにテレビに見入る妻の昭子の姿が目に入った。
不意に心がしぼんでゆくのを覚える。
俊介は五十三歳になる。三歳下の妻は、だから五十歳になったばかりだ。
世間の五十歳の女がどうかは知らないが、昭子はいつの間にこんな淀んでしまったのだろうか。
もっとも、俺がこんな風にしてしまったのだ。
そう思うときに胸を塞ぐやり場のない絶望感を、俊介はいつも目をつぶって脇をすり抜けるように誤魔化してきたことに気づく。
元々、昭子の顔立ちは綺麗な方だ。だが持って生まれた人相というものは、己の生き方でどうにでも変わるものだ。
ふと、出会った頃の昭子の溌剌とした笑顔を思い出す。そういえば昭子の笑った顔などしばらく見てもいない。
それなら、逆に俺はどうか。仕事場では部下に人気もある、上司にも好かれている。明るく笑い、闊達に動く。
その自分が、家ではこんなしみったれた顔でじっと言葉を呑んでいる。
家族の方にしてみれば、俊介の笑った顔こそしばらく見たこともない、と言うだろうか。
笑うきっかけが見つからない。いつの間にかそんな家庭にしてしまった。
何かしら言いようのない怒りが心のどこかで噴き出そうとするのを感じて、俊介は大きく息を吐いた。
そこへ不意に電話が鳴った。
警察からだった。
警官は、落ち着いた声で身分を名乗り、それから「大崎俊太郎さんのお宅ですか」と言った。
「はい」と答える声が少し震えた。
だが、警官は意外なことを言った。
「ご本人の所持していた免許証から分かったのですが……」
ゆっくりと言葉を選ぶように、「どうも、ご自宅への道筋を忘れられたようです」と告げた。
「自宅への道を忘れた」という表現に少しばかり俊介の頭の中は混乱したが、事の詳細はともあれ、父はひとまず元気だった。
そのことに安堵し、あわてて幾度もその警官に礼を言い、とりあえず、すぐに引き取りに行った。
目黒の自宅から出かけた父は、神奈川県の大磯にいたのである。
「いやいや、こういうことがあるんだなあ」
迎えに行った帰りの車の中でもしきりに首をひねっていた父は、帰宅して、俊介の淹れた茶を飲みながら、息子に詫びた。
「すまん。困ったことに、その……記憶がないんだ」
幼い子供のような恥ずかしそうな表情で父はそう言った。
これほど不安を隠さない父の顔を見るのは初めてだった。
「親父、まあ、その、誰だって疲れればそういうことはあるよ。あんまり、考え込まないで、さあ、今日のところは、寝た寝た」
俊介ができるだけ明るい声でそう言うと父はようやくほっとしたような顔になって、
「そうだな、そうだな、疲れてるんだな」
と応えた。
父が緩やかに壊れた。
*
俊介が大学を出て大手電機メーカーのN電器に入社した昭和四十年代の半ばは、とにかく家電の上昇曲線のさなかで、何しろ作れば作るだけ売れた、そんな頃だった。
世間はいわゆる七〇年安保の前後である。
最初に配属された総務から三年目に突然営業に移り、以後は営業畑で松山、博多、仙台、大阪本社と歩いて、同期の中では一番早く営業部長になり東京本社に戻って落ち着いたのが三年前である。
俊介の会社は他社ほど派閥争いは厳しくないが、それでも全くないわけでもなく、実際、俊介の慕う上司が次期社長候補になりそうだ、というので仲間は沸いている。
信頼する上司の出世によって、直属の部下たちの仕事がずっとやりやすくなるからこれは有り難い。
会社では、まあ、いわば順風満帆である。
その分、家がうまくない。
昭子とはいわゆる社内結婚で、出会ったのは東京本社勤めの三年目、会社の受付に座った昭子に一目惚れしたのは俊介の方だった。昭子の笑顔がよかった。
丸顔で愛嬌のあるわりにスタイルが良く、同じ制服でもセンスの良い着こなしと、気さくな性格で、同僚の間では大層人気があった。
俊介が口説いて、愛媛県の松山へ異動する直前につきあいはじめ、博多勤務時代に結婚した。
俊介が三十、昭子が二十七歳の秋だった。
その後俊介は、この頃新設されたハイテク関連部に配された。当時はむしろ海のものとも山のものとも知れぬ部署で、どちらかというと冷や飯食い扱いで、同期の同僚たちからは同情すらされたものだった。
ところがバブルの崩壊後はその部署が会社の浮沈の鍵を握っているのだから、俊介はむしろ逆に運がよかったと言える。
結婚三年目に長男の大介が生まれ、その二年後に長女の咲子が生まれた。
この頃は博多で一緒に暮らしたが、子供たちが学校へ通うようになってから、家族は東京へ戻って暮らし、俊介は仙台、大阪と単身赴任をした。
父の俊太郎が一人息子の俊介の大切な家族と同居する、というので家を改築し、老夫婦が二階の一室に引き上げる形で昭子と二人の子供たちを迎えた。そこまでは、何事もなかったのである。
平凡だが幸せな、どこにでもあるサラリーマン家庭だった。
バブルの頃に俊介がしくじった。仙台に女が出来たのだ。
国分町のスナックの女で、笑顔がよかった。生まれ、育ちも東京の目黒で、俊介と一緒だったからひどく気が合った。
この女が俊介の仙台の社宅扱いのアパートに来ているところへ、昭子と鉢合わせになって、騒ぎになった。
なんとまあ、浮かれていたのだろう。
冷静な今になればそう己を笑いもできるが、あの頃は日本中が得体の知れぬ景気に沸いて、魔物に魅入られたように誰もが金に群がり、誰もが金を手にすることができた。
日本中が地上三十センチほど浮き上がったような有様で、会社の接待交際費などいわば遣い放題だった。
冷静に考えれば、という言葉を信じられなくなったのはあの時からで、人は決して「欲」の前では冷静でなどいられない生き物なのだ、と知った。
仙台の女は、世間に迷わされ分不相応に舞い上がったその頃の自分の「欲」そのものの表れだったろう。
逆に言えばあの女こそまさしく「被害者」だったのだ。
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サクラサク
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