家族のため仕事に邁進して来た俊介だが、気づくと家庭は崩壊していた。冷えきった夫婦関係、フリーターの息子にイマドキのムスメ……そして、厳格だった父は惚け始めてしまった。家族を、そして父を取り戻すため、俊介はワゴン車にみんなを乗せ、父の故郷・福井へ向けて旅に出る……。ミュージシャン、さだまさしさんの『サクラサク』は、涙なしには読めない家族小説。部数は75万部を突破、2014年には映画化もされました。そんな本書の冒頭を、少しだけご紹介しましょう。
* * *
父は戦後ずっと大手デパート勤めで、定年後は発展著しい大手スーパーマーケットの相談役としてコンビニエンス・ストアの進出に尽力した。
そのことで、経済誌の記事に大きく扱われたこともあるような人生を送っていたが三年前に妻を失って以来、何かにつけ、少し消極的になった。
闊達に話す日があるかと思えば、一日中眠っていたり、深夜、物音に驚いて起きてゆけば一人で階段を上り下りしている、というようなことが増えたのは、大磯事件から五カ月ほど後、一番寒さの厳しい盛りを少し過ぎた早春の頃だった。
次第に思うように言葉が出てこない状態が増えはじめたようだ。初めはそういう自分にひどく苛立ち、そのために不用意に怒りだしたり、不機嫌になったりしているのが分かったが、その後半月もすると、諦めたかのように穏やかに言葉を失っていった。
この頃になると、俊介は仕事から帰ると必ず父の部屋を訪ねるようになった。
妻の昭子は相変わらず父の病状には無関心で、食事の世話以外は何も気遣わない。
よくもまあ、これほど情の薄い女に変わり果ててしまったものだと、ときどき身体が震えるほどの怒りがこみ上げてくることもあるが、結局いつも、昭子のこの心の傷もきっかけは元々全て自分が蒔いた種だ、と天井を仰いで大きなため息をついて諦めるしかなかった。
父の部屋は几帳面な父らしい整然とした落ち着きを次第に失いつつあったが、それでもおそらく父なりに精一杯にいつも整頓されてあった。その整理の様子から、俊介は父の病気の進行を測ろうとした。
しかし所詮は素人だ。実際、気づかぬうちに父はもう、かなり抜き差しならぬところまで追いつめられていたのだった。
*
それは四月初めのいわゆる、花冷えの日の午前十一時過ぎだった。
会社に女房から電話がかかってくることなど、これまでにほとんどなかったが、怪訝そうな顔で部下が取り次いだ。
「どうにかしてよ!」
いきなり昭子が金切り声をあげた。
その言いぐさにかちんときたが、俊介は会社にいる手前、一緒になって激昂するわけにはいかない。落ち着いた顔で、押し殺した声で、必死に対応した。
「どうした? 何かあったのか」
「おじいちゃんが!」
昭子は吐き捨てるように続けた。
「ああ、もう! 最低! とにかく急いで帰って! どうにかして! 早く帰って!」
そう言うと一方的に切れた。
一体何があったのか? 父が何をしたのか?
考えても分かるものではない。おそらく、惚けの症状の一つが、昭子を激怒させているのに違いない。
それは一体なんなのか?
「最低!」という言い回しがひどく心に突き刺さった。それで俊介は珍しく早退を決めた。
丸の内の本社から自宅までいつもなら車で四、五十分かかる。時計を見ればまだ昼少し前で、この時間帯なら三十分もあれば帰ることができるだろうか。
目黒まで高速に乗るか、そんなことを考えているときだ。
「部長、中川常務からお電話です」
自分を呼ぶ声がした。
振り返ると課長の大森が電話機の送話口を右手で塞ぐように押さえながら、「どうされますか?」と訊いた。
先ほど家からかかってきた電話のあと、俊介の顔が険しくなったのを大森は見て取ったらしい。
一番可愛がっている部下だ。俊介の家で何か事件があったのを感じ取って気遣っているのだ。それでもう退出した、と告げようかどうしようか、という暗黙の問いかけをしてくれているのである。
「うん」
俊介は頷きながら手元の電話機を指さした。
中川の電話に出ないわけにはいかない。
大森は「ただいま代わります」と応え、保留ボタンを押した。
俊介の慕う中川は次期社長候補と目されている。人柄は清廉で明るく、社内にも敵は少ない。
もちろん人間同士、どこで謂われのない恨みを買うかは分からぬが、中川は敵も上手に使うような奇妙な人徳があった。
中川が社長になれば、最悪の経済状況下でも会社は間違いなくもっと良くなるだろう、と俊介は信じている。どうにかしてくれるのではないか、という切り札のような気持ちで中川を見つめている。
また、中川には、恩がある。
入社試験の時のことだった。試験も三次まで進み、最終の面接試験の際、入室して着席してみると、七人いる面接官の一人が半ば居眠りをしていた。
「ふざけるな。こっちは命懸けでこの会社を選んだのだ」
むらむらと怒りがこみ上げた。
挨拶の後、一言二言何やら問いかけられ、虚ろになって答えたが、我慢ならず俊介はいきなり席を蹴った。
「失礼します!」
と立ち上がった俊介の背中へ、「君!」と呼び止めたのは当時人事課長だった中川だった。
「座りなさい」
柔らかだが強い温情に満ちた声だった。
俊介が座り直すと、
「まだ、面接は終わっていません」
と中川は静かに言った。
「あ……はい」
中川の一言で俊介は水を被ったように我に返った。
命懸けでこの会社を選んだ、と言いながら、このくらいの屈辱で尻尾を巻いて逃げ出そうとした恥ずかしさに身がすくんだ。
「失礼いたしました」
「ではさらにいくつか質問をします」
何事もなかったかのように、中川は面接を続けた。
「実際なんでお前が席を蹴ったのか、俺は分かってたんだ」
入社式のあと、中川は俊介を呼び止め、一緒に酒を酌んだ。
その時に中川が笑いながら言った。
「あの面接官はな、蒲田という役員だが、前時代の遺物のような男でな。なあに、会社でも役員室のな、いつも陽の当たる窓の近くで一日中寝ているような男なのさ。夜は何をしているんだか知らないがな」
「とはいえ、生意気でした。すみません。あの時、中川さんが止めてくださらなかったら、あのまま帰り、今頃はひどく後悔していると思います」
俊介は正直にそう言った。
「あの日、蒲田氏が居眠りをしているのに気づいたのはお前のほかにあと三人いたが、みな、見て見ぬふりだった。蒲田氏に対して正直に怒ったのはな、お前だけだったのさ」
そう言いながら中川は自ら新入社員の俊介のグラスにビールを注ぎ、自分のグラスには手酌で注ぎながら豪快に笑った。
「実際、腹が立つのが当たり前なのだ。だからといって席を蹴って立つのは大人げないが……」
「申し訳ありません……」
「いや、俺はな、お前のその、青くて若い正義感が気に入ったんだ。気づいて黙っていた三人は落とした。悪に気づいて見ぬふりをするような男は信用できない。ただ……」
「はい」
「会社というものは、組織だからな」
そのあとに中川の言った一言が、今まで俊介を支えてきた。
「一人の正義感で何かが動くこともあれば、一人の正義感が全てを壊すこともある。ここのところを、きちんと測ることができるかどうかが器量だ。正義は大切だが、万能じゃねえってことだ。いいか大崎。臨機応変だ、忘れるな」
そう言ってにやり、と笑った。凄みのある笑顔だった。
「お呼びですか?」
役員室へ入ってゆくと、中川が満面の笑みで、「おう、来たか。忙しいところすまん」と言った。
「とんでもない」
あのな、と、中川はいきなり言った。
「今月中にお前の取締役、決めるからな」
「は?」
思わず息を呑んだ。どきり、と心臓が痛いほど唸った。
取締役? 俺が?
「実はな、非公式だが俺が六月に社長になることがほとんど決まった」
「やった! おめでとうございます」
「ありがとう。だがまだ、オフレコだぞ」
「承知しています」
やった、やった、と心の中で何度も快哉を叫んだ。
しかし「取締役」という響きはどうにも唐突だと感じた。俊介には自分が役員になるというイメージが毛頭なかった。
「お前、俺が推すから、役員になれ」
「はあ」
ピンとこないからどう返事をしてよいのか分からなかった。
「はあ、じゃねえだろ。全く欲がねえんだから。いいか、今月から……そうだな、六月いっぱいまでは身の回りに気をつけろ」
「身の回り? ですか?」
「仙台の、ほら……あの女はどうした?」
なるほどそういうことか。
会社役員ともなれば、株主は、そのひととなりに無関心ではいられない。スキャンダルは一番の敵だ。
「ああ。はい。自分のせいであの女には苦労させましたが、結局、あれです……もう随分前に、私の方が愛想をつかされました。面目ないです」
あははは、と中川は笑った。
「ぬけぬけと正直なヤローだなあ、まったく。まあいい。とにかく気をつけろ。敵は下半身や足下をねらってくるからな。分かったか。俺が社長になるなら、片腕のお前は役員だ。当然だろ」
「は。ありがとうございます」
恐縮して立っている俊介を見つめる中川の眼は少しも笑っていない。むしろ、仕事上で乗っているときの、活き活きとした眼差しだ。
そうして柔らかいが強い声で諭すように言った。
「おい、俊介。お前、俺の言っていることの意味が、ちゃんと分かっているのか?」
「はあ?」
きょとんとする俊介の顔を呆れたように見つめ、苦笑いをしながらさっぱりと告げた。
「ばあか。俺の次はお前ってことだよ」
この時ばかりは一瞬心臓が止まった。
サクラサク
家族のため仕事に邁進して来た俊介だが、気づくと家庭は崩壊していた。冷えきった夫婦関係、フリーターの息子にイマドキのムスメ……そして、厳格だった父は惚け始めてしまった。家族を、そして父を取り戻すため、俊介はワゴン車にみんなを乗せ、父の故郷・福井へ向けて旅に出る……。ミュージシャン、さだまさしさんの『サクラサク』は、涙なしには読めない家族小説。部数は75万部を突破、2014年には映画化もされました。そんな本書の冒頭を、少しだけご紹介しましょう。