家族のため仕事に邁進して来た俊介だが、気づくと家庭は崩壊していた。冷えきった夫婦関係、フリーターの息子にイマドキのムスメ……そして、厳格だった父は惚け始めてしまった。家族を、そして父を取り戻すため、俊介はワゴン車にみんなを乗せ、父の故郷・福井へ向けて旅に出る……。ミュージシャン、さだまさしさんの『サクラサク』は、涙なしには読めない家族小説。部数は75万部を突破、2014年には映画化もされました。そんな本書の冒頭を、少しだけご紹介しましょう。
* * *
帰宅してみると、予想しなかったことが起きていた。
一階の風呂場とトイレとの間のフローリングの床の上で、父は自らの汚物の中に正座をし、うずくまったまま、その前に立ちはだかる昭子を呆然と見上げていた。
「親父、親父」
俊介が幾度も呼びかけるが父の視線は微動だにしない。
冷えたせいだろう、がたがたと身体を震わせながら、それでもじっと昭子を見つめたまま黙って座り込んでいる。
「ねえ、どうにかしてよ。これ」
また昭子が金切り声をあげた。
「お前は……」
俊介の声が悲しくてかすれた。
「どうにかして!」
「おい」
俊介が怒鳴ろうとするよりも一瞬早く昭子が叫ぶように言った。
「とにかくなんでもいいから、ここを綺麗にして!」
「最低」と昭子が言ったのはこのことか、と思ったとたんに血が逆流した。
赤の他人なら分からなくはない。
だが仮になんの恩も義理もない通りすがりの他人だとしても、人として心があるのならば、この状態を見たとき、ひとまずその人やそこを綺麗にしてやろうという思いが自然に浮かぶのが人情ではないか。
汚らしいという理由で触るのがいやであっても、せめて心のどこかで同情の心くらいは働くのが普通の人間ではないのか。
第一、俊太郎は昭子には義父なのである。義父が惚けて粗相をした。そのことでわざわざ夫を仕事場から呼び戻し、その悲しい様を見せつけることが妻の仕打ちなのか。
俊介の心がさすがに悲鳴をあげた。
俺が中川に呼ばれて役員室にいたおよそ十分。丸の内から帰宅するまでの約三十五分、都合おおよそ一時間近く、昭子は、父をここに放置していたのだろうか。
可哀相に父は震えているではないか。おまえには情のかけらもないのか、と胸ぐらをつかんで殴り倒してやろうか。
そんな沸騰するような怒りが胸を焦がす。
だが、それよりも何よりも今はまずこの修羅場から父を救い出さねばならない。それで精一杯声を抑えた。
「風呂を沸かせ」
「沸かしてあるわよ!」
「金切り声を出すな。親父が怯えているのが分からないのか」
そうしてとうとう、「俺が全部やるから! ……お前はとっとと向こうへ行け!」と怒鳴った。
父の身体を洗いながら涙が出そうになる。しかし腹の底から湧き上がってくる得体の知れない怒りが涙を止めた。
泣いて決着する話ではない。
もっと現実的にこの状況は逼迫している。
これから、こうなった父をどうするのか。介護、と簡単に言うが、自分の会社での今の立場や、この絶望的な家庭内の環境を思うとき、思考は梗塞する。
デイ・ケアという言葉や老人介護という言葉はもちろん知っている。ただ……遠い、人ごとだと思っていた。
老人性痴呆症という病気のことなどなんにも知らぬ。
どこか時間を凍結して見て見ぬふりをするように、自分は仕事に逃げ込むように現実から目を背けていたのだ、と気づく。
母はすでに亡く、女房はあれである。いよいよ窮まった、と父の背中をさするように流しながら嘆息した。八十近くまで生きた父の身体は、いつの間にかすっかり脂が落ちて骨と皮ばかりになっていた。
「親父、ほら、もう、湯船に浸かっていいよ」
そう言いながら父の腕の付け根を両手で支えた。返事はないが、父は意外に確かな足取りで湯船に滑り込んだ。
俊介は下着一つのまま、乾いた場所を選んで腰を下ろした。
「昭子は……」
不意に父がはっきりした口調で言った。
「怒っていたなぁ」
俊介は息を呑み、目を丸くして父を見た。
「親父……」
気づいていたのか。
俊介の頭は混乱した。どこまで正気だったのだろう。
おそらく便意を催したか、風呂に入ろうとして、あそこまでやってきた父が、年老いた不覚で、粗相をした。それで、自分でそのことに驚き、恥ずかしさに凍り付いたのだろうか。
おしゃれで、気のきく人だ。ダンディだったし、品の良い人だった。そのプライドもあったろう、父は、何もかも分かって、とっさに惚けたふりをしたのだろうか。
俊介は言葉を呑み込んだ。
「悪かったなあ、俊介。昭子にもね……」
父は湯船で顔を洗うようにそっと涙を隠して言った。
「また、あの時と同じだ」
「あの時って?」
「ほら、大船までどうやって行ったか分からずお前に連れに来てもらったろう?」
「……大磯だったね」
「ああ。そうそう、大船じゃあない。大磯だったな。あの時と同じだ」
「同じ?」
「ああ。気がついたらあんな恥ずかしいことになっていた。昭子が驚いて大声を出すものだから、俺の方が驚いてしまってね、さあて、どうしようか、と考えていたら、お前がまた連れに来てくれた……ありがとうね」
いわゆる「まだら惚け」なのだ。残酷な言い方ではあるが、適確な表現だ。
俊介は落ち着きを取り戻した父の顔を眺めた。
「ま、親父、年齢だよ。そういうことがあってもしょうがない歳なんだから、気にしないこと」
「いやあ、すまん。申し訳ない。家も汚してしまって」
「気にしないで。ここは親父の家なんだからね」
そこでやっと俊介の眼に涙が滲んだ。
「親父、そんなことで申し訳ながる必要なんてないんだよ」
と言った。
「親子なんだからね」
それで心を切り替えるように、「親父、今夜は……どうだい? 外に飯食いに行こうか」と言ってみた。
「おお、いいなあ。たまに、『常磐』へでも行くかね」
意外にも父は頬に赤みを戻し、やっと張りのある声を出した。
「昭子。すまなかったな、ごめんよ。歳だから、といっても僕は恥ずかしいよ。許しとくれね」
出がけに父は玄関で手に持ったソフト帽を胸に抱いて、昭子に深々と頭を下げた。
昭子は、先ほどとうって変わったようにしゃんとした父を薄気味悪そうに見つめながら、「いいえ」とたったそれだけ言うと、今度はばつが悪そうな顔をして軽く頭を下げた。
俊介は昭子を睨みつける自分の目がどれほど冷たいか、もちろん知っている。
父は真っ白の開襟シャツに、今はもう手に入らないタイマイ鼈甲細工の気に入りのループ・タイを締めた。身体にぴったりに作ったスプリング・コートを羽織り、背筋をぴんと伸ばして颯爽と歩いた。
俊介がわざわざ父の得意のダンディな格好をさせたのは、昭子への当てつけだった。
一方、俊介は珍しくジーンズをはいた。
町内になじみの寿司屋があった。
今の「常磐寿司」の主人、石平康平は俊介の幼い時からの親友で、俊太郎には子供の頃から随分可愛がられたものだ。
寿司職人だった康平の父は、康平が高校二年の春に病気で急逝し、一度店はつぶれた。
それで康平は高校を中退して寿司職人になるための修業に出、三十になる少し前に家に戻って「常磐寿司」を再興した。わずかではあるが俊介の父がその折、開店のための資金を援助したことを俊介はあとで康平から聞いた。
そんなこともあって気になっていたのだろう、俊太郎は再々この店へ来た。今は亡き妻といつも二人連れだった。
俊介も四十そこそこの頃には、この店でよく父と二人で盃を交わしたものだ。店じまいまで呑んで、最後にはいつも康平が加わった。
康平は俊太郎のことを心底から慕って「親父」と呼ぶ。
「親父、最近、姿見せねえから、体の具合でも悪いか、と実は来週あたり、家まで行くつもりだったんだぜ」
康平は父の顔を見るなり優しい顔で嬉しそうにそう言った。
康平には大磯の一件の後、父の病状を告げた。
「おい。惚けはな、俊介、治るんだぜ。本当だ」
その時康平は真面目な顔で言った。
「お前よ、本当に治るんだぜ。嘘じゃねえんだ。絶対諦めるなよ。人間ってのはよ、心で生きてるからよ、滞った場所を、どんと叩かれたら正気に戻るんだ。本当だぜ」康平は一途な目をして涙ぐみ、口から泡を飛ばすようにそう言って俊介を励ました。
あれから半年以上、ここには来られなかった。
「俊介、カウンターはごらんの通りだ。すまねえが小上がりでしばらく待ってくれ」
「やあ。流行ってるね。結構結構」
父は嬉しそうに康平に声をかけた。
「康平、その方が都合がいい。気にするな。酒を二合。つまみは適当に頼む。久しぶりに親父と差し向かいで話がしたくってな」
俊介がそっと目配せをしながらそう言うと、
「オーケー。はい、一番さんに常温でお酒だ。お二人さんだよ」
若い衆に甲高い締まった声で言った。
「はいぃぃ常温で二合」
張りのある若い元気な返事が聞こえた。
サクラサク
家族のため仕事に邁進して来た俊介だが、気づくと家庭は崩壊していた。冷えきった夫婦関係、フリーターの息子にイマドキのムスメ……そして、厳格だった父は惚け始めてしまった。家族を、そして父を取り戻すため、俊介はワゴン車にみんなを乗せ、父の故郷・福井へ向けて旅に出る……。ミュージシャン、さだまさしさんの『サクラサク』は、涙なしには読めない家族小説。部数は75万部を突破、2014年には映画化もされました。そんな本書の冒頭を、少しだけご紹介しましょう。