家族のため仕事に邁進して来た俊介だが、気づくと家庭は崩壊していた。冷えきった夫婦関係、フリーターの息子にイマドキのムスメ……そして、厳格だった父は惚け始めてしまった。家族を、そして父を取り戻すため、俊介はワゴン車にみんなを乗せ、父の故郷・福井へ向けて旅に出る……。ミュージシャン、さだまさしさんの『サクラサク』は、涙なしには読めない家族小説。部数は75万部を突破、2014年には映画化もされました。そんな本書の冒頭を、少しだけご紹介しましょう。
* * *
久しぶりだ。父とこうしてまた向かい合って酒を飲むなどということは、正直、もう、ないかもしれないと密かに覚悟をしていた。
奇跡的にこういう機会に恵まれたが、もちろん俊介はこれからもあるさと、楽観できる性分でもなかった。
「明石の鯛の活きのいいのが入った。あと、今は、ぎりぎり日本海のヒラマサの良いのがある。あとでカマを塩焼きにしてやる。旨ぇぞぉ。ウニは三陸のウニ。親父はマグロは赤身だったな? ヅケにした。それと、桜エビが旨い。少しずつにしたぞ」
カウンターの中から出て、自ら刺身の盛り合わせの大皿を運んできてテーブルに置きながら康平が笑った。
「親父、ゆっくりしてってくれよな。店が終わるまでいてくれたら、俺も一緒に飲めるんだが」
「いや、康平。僕も、もう歳だ。長くはいけない。ごめんよ」
応える父のこういう姿は少しも昔と変わらない。一体この父のどこにどのような病魔が潜み、父をどんな風に壊しているのだろう。こうしてしっかりしたときなどは、並の人以上にしっかりとしているのに、だ。
俊介は先ほどの、怯えたような眼差しで昭子を見上げていた父とは別人にしか見えない今の父の顔を、切ない気持ちで眺めた。
いい知れない怒りと虚脱感とがない交ぜになって俊介の心の奥を震わせた。
盃に酒を注ぐと、父は、「いやあ、まことに、久しぶり」と匂いを嗅ぐように鼻を近づけ、じゃあ、と軽く乾杯の仕草で盃を持ち上げてみせた。
そしておそるおそる、といった感じに盃を空けると、「いやあ、甘露甘露」と幸せそうな声を出した。それから、
「俊介。あのね、ここだけの話だが、歳を取るとね、思いがけないことがある。あのね、尿意や便意が……」
そう言いかけて辺りを見回し、首をすくめて小声になった。
「いや、すまん。食事処だったね。あのね……そういうものがね……分からなくなるんだよ。恥ずかしいなあ」
「恥ずかしくはないよ。歳を取ればそういうことだってあるさ。ああ、そう……分からなくなるのかい?」
「うん。いつなんどきくるのか、分からないのだ」
「それじゃあ……」
俊介が言いかけるのを制して父は分かっている、と頷くようにさらに小声で言った。
「おむつをな……するようにしているのだ」
絶句した。この父がおむつをしているのか。
「驚くことはないよ。ところがね、自分でもなんだか分からなくなる日があるだろう? それで、うっかりそれをし忘れたときにね、ほら、今日のていたらくになる」
父は冷静に言った。
「歳を取るとはそういうことだ。プライドは傷つくがね」
「そのう……」
酒を注ぎながら訊いた。
「そういう……ものは……自分で買いに行くのかい?」
「おむつかい?」
父は盃を置くと俊介を見つめて答えた。
「大介さ」
あっさりと父は孫の名前を言った。俊介は目を丸くして父の顔を見た。
息子が?
あの、高校も退学になり、ぶらぶらと無気力に、毎日を面白くなさそうに生きている、息子の大介が?
「お前はな、俊介、子供たちへの眼差しがね、厳しすぎる。冷たいなあ、と思うほどだよ。そうするとね、お前の出来が悪ければ子供だって開き直ることもできるが、お前がまたひどく出来が良いだろう。こうなるとね、子供は萎縮こそすれ、自然な自分なんて、お前の前で出せなくなるじゃないか」
胸が熱くなった。父が説教をしてくれている。なんと懐かしい声なのだろう、と思った。
若い頃はいちいち反発して腹が立った声が、こんなに心地よく響く日が来るのだな。
腑に染みる、という言葉がふと俊介の胸に落ちた。
「確かにそうかもしれないね」
「ああ。大介はね、……いい子だよ」
父は優しい声で言った。
「俊介。お前は、最近、大介を褒めたことがあるかい?」
「あ……いや、あいつは、その……」
「良いことをしたら褒めてやらにゃあ人間、前を向いて歩けなくなる。褒めてやるにゃ、その人間を一所懸命に見つめていなくっちゃいけないんだ」
盃を口に運ぶ。久しぶりの父の姿だ。
「俊介。お前は大介のことも咲子のことも、ちゃんと一所懸命に見つめていないのじゃないか?」
胸を突かれた。
「もしかしたら昭子のことも、ね……」
びっくりして思わずまた父の顔を見た。
「実はね。僕は……前に自分の部屋でも粗相をしたことがあったようなのだ」
「前にも? そう……知らなかった……」
「ようなのだ、というのはね、僕もその時は、ほれ、あの大磯の時のような状態で、自分でも気づかない状態だったのだが、大介がね、全部綺麗にしてくれたのだ。僕はそこで我に返った」
「え」
「我に返ったら大介が黙って僕の汚物を拭き掃除してくれていたのだよ。愕然としたぞ。それで大介はね、翌日、大人用のおむつを買ってきた。それでね、じいちゃん辛いだろうが、これをつけな、ってね。僕は嬉し涙が出たぞ。僕の味方がここに一人いてくれたってな……」
俊介の知らない大介の姿を聞かされて声も出ない。
それから父は屈託ない表情で、旨い鯛だぞ、と言いながら俊介にも勧めた。
その時父の手元が目に入った。
わずかだが箸の持ち方が少し前と違うかな、と思う。どこが、とは言えず、気のせいかもしれないが、前はもう少し粋な箸遣いだった気がした。
「以来、大介はね、毎朝、僕の使ったおむつをね、ビニール袋に入れて、本当は反則なんだ、と言いながらアルバイト先に持っていって処分してくれているのだ」
そんなことがあったのか。あの大介にそんな一面があったのか。
「知らなかった」
「そりゃ、そうだろう。だあれも知らんよ。大介がな、これはじいちゃん、秘密にしとこうって言った」
「…………」
「僕のね、プライドを慮ってくれているのだ。お前は知らないだろう? ちゃんとあの子を見ていないからだ。勉強や外面の出来などどうでもいいじゃあないか。大介は人の痛みを感じられる、本当はそういう子なのだ」
父は一瞬考え込むように盃をのぞき込み、微かに頷いてもう一杯と催促し、少し口を付けると柔らかに言った。
「白い家の話をしたろう?」
「福井の?」
「ああ。敦賀のね。……あの家での暮らしはね、貧乏のどん底だったんだ。引き揚げで何もかも失くしたからね」
「うん」
「だが、不幸せではなかった」
淡々と、だが饒舌に語る父の顔を見ていて、ふと思う。
父はもしかしたら自分の病状をちゃんと知っていて、今夜これが正気の最後だと思い込んでいるのではないか。
思い残すことのないように精一杯話をしようとしているのではないか。
今、伝えなければならないことがきっと沢山あるのではないか。
そう思ったとき、父はそれほど気丈なのだろうかと改めて胸が熱くなる。
父は、実のこもった熱い声で、しかし穏やかに続けた。
「俊介。貧しいと不幸せは同じものじゃない。豊かと幸福も同じじゃないだろう?」
なるほどな。
その言葉を脳裏に噛みしめながら、一体自分は自分の家をどうしたいのだろう、と思った。
俊介の家は普通に見ればずっと豊かな方だ。だが幸福とは言い難いはずだ。
父は何もかも分かっているのだ。
本当にこのまま父は静かに別の世界へ行ってしまうのだろうか。
俺はこの優しかった父にとうとう、置いてゆかれてしまうのだろうか。
情けないことに、俊介は自分の歳を恥じた。五十三になろうが六十になろうが、父がある限り、子は子なのだ。いくつになろうが、親の前では子供はずっと子供なのである。
五歳の時、父の手にすがって遊んだ大鳥神社の縁日の人混みを思い出した。
あの晩、俊介は迷子になり、一人べそをかいた。すぐにどこかの大人が気づき案内所で無事に保護され、父が迎えに来てくれたものの、あの時の父を待つ間の不安を思い出したのだ。
父と子という距離は少しも違わない。違いようがないのだ。
いつかあの晩と同じように父は不意にどこかに去り、俊介は今度こそ永遠に迷子になるのだ。
その淋しさに心がしぼんだ。
久しぶりに泣きだしたいような心細さに言葉が凍った。
父はしばらくあれこれと俊介の知らない大介の話をしていたけれど、三十分ほどの後、突然に黙り込み、考え込んでしまった。
「俊介……」
そうしてやがて俊介の眼をのぞき込むと、これまでにも何度か言いかけては呑み込んでいたであろう問いを、とうとう決心したように口にした。
「僕は……惚けたのかい?」
静けさの中で、父は胸を張り、泰然としてそう尋ねた。
全ての物音が止まった気がした。
声にならなかった。
俊介はしばらくしてようやく首を横に振ってみせた。
翌日から父はまた物言わぬ背中に戻っていった。
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サクラサク
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