彼氏がいるのに、別の人にも好意を寄せられている汐梨。バイトを次々と替える翔多。絵を描きながら母を想う新。美人の姉が大嫌いな双子の妹・梢。才能に限界を感じながらもダンスを続ける遙。みんな、恥ずかしいプライドやこみ上げる焦りを抱えながら、一歩踏み出そうとしている……。直木賞作家、朝井リョウの『もういちど生まれる』は、若者だけが感受できる世界の輝きに満ちた、爽快な青春小説だ。その冒頭部分を、特別にご紹介します。
* * *
えっ、いまあたしにキスしたのどっち?
真昼の月のように、ぼんやりと輪郭が見えなくなっていく意識。あまい甘い眠りの誘惑に落ちていきそうになりながら、それでもあたしは完全に寝てはいなかった。徹夜の出口、朝四時。調子よく麻雀牌を操っている中、腰が痛いからってソファに寝転がったのが間違いだった。まだ歯も磨いてないし、化粧もしたままだし、やっぱシャワー浴びてから寝たいし、ていうかあたし家主だし、ひーちゃんと風人、いるし、なんて、頭の中にたらたらとぶらさがる数々の理由にしがみつきながら、しっとり寝たりほんのり起きたりのくりかえし。だけど、今、完全に眠気が消えた。
キスされた。と思う。
どっち? と一瞬迷ったけれど、ひーちゃんは女だよ、てことは風人に決まってる。イケメンなのになぜか童貞っぽい風人に決まってる。不意に、部屋の空気をかき混ぜるようにトイレのドアが開いて、誰かが出てくる気配がした。たぶん、今のがひーちゃんだろう。空気の波がふわりとあたしの上を撫でていく。
ひーちゃんがトイレに行っている間にあたしにキスするなんて、風人さ、けっこうオオカミじゃん。信じらんないな、ラムネのビー玉みたいなくりっくりの目してさ、無理した茶髪みたいなのがマジ童貞……なんてとろけた脳を必死に働かせながら、あたしは寝返りを打つようにして牌の散らばるテーブルに背を向けた。ちょっとどきどきしている。はじめてアイラインを引いたときくらいの、カタカナよりもひらがなで書く、どきどき。
二ミリくらい、くちびるが勝手に笑ってしまう。瞼の裏に一瞬、尾崎の鎖骨が蘇った。
「汐梨、寝ちゃったね」
背後で、ひーちゃんの声がする。ダメだ、せっかく背中を向けたのに、なんだかこのほうが神経が二倍くらい敏感になった感じがする。からだ半分の背中で感じる空気が、ぴりぴりしている。
「さっきまで酒ガブ飲みでギャーギャー彼氏の話してたくせにな」
そのくせいっつも俺かひーちゃんにツモられてやんの、と風人はあくびをする。うるせーな、と思いながら、風人の声が自分の中で温度を持ち始めていることに気がつく。
からからから、と乾いた音がした。ひーちゃんが窓を開けたみたいだ。夜中のうちにこぼした愚痴を浄化してくれそうな風が、部屋中をこっそりと這う。五月の明け方は、世界のはじまりみたいだ。だからといって、何もかもが終わってしまったようなさみしさもない。
あたしは、ジャラジャラ乱れる牌の音が好きだ。時間と体力をたっぷりともてあました大学生の夜を、底からぐしゃぐしゃにかき混ぜてくれる音。それこそ、「今からはじまる」って気がする。あたしは、ビールを飲んであぐらをかいて三人で牌を囲んでいるとき、何かがちょっとずつ、深くなっている気がする。何がって聞かれたら困るけど、言葉にしたら浅くなってしまうようなものが、三人の間で深くなっていく。
「三人でやると、もう四人でできなくなるのよね、麻雀……待ちきれなくって」
独りごとのようにそう話すひーちゃんに限っては「待ちきれない」なんて現象は起きない。ひーちゃんは、まるで透視でもしているみたいに、欲しい牌をするりするりと裏返していく。今日も汐梨は弱かったわね、という美しい声の向こう側から、シンクに水がぶつかる音が聞こえてくる。空になったビールの缶を洗ってくれているのだろう。
見なくてもわかる。ひーちゃんは今とてもきれいな横顔をしている。誰も近寄らせない黒いまっすぐな髪の毛と、間違ったことを間違っているとする瞳。
「……四人でできなくなるっていうか、呼ぶひといなくね?」
「それ言うの禁止ね」
「尾関、くんでも呼べばいいのに」
おいおい風人、お前それじゃキスできなかったよ、とあたしは心の中でふざけてみる。友達の彼氏とはいえ、呼び捨てにできないところが風人の童貞っぽさだ。ていうか尾関じゃなくて尾崎だし。
三人でやるとちゃきちゃき進んでしまう麻雀も、さすがに二人ではできない。慣れた手つきで部屋を片づけ始めた二人の動きを感じながら、あたしは、尾崎を呼ばなくてよかった、と思った。それと同時に、風人があたしにキスをしたことが、こんなにも深くなった三人をどうにかしてしまわないことを祈った。
ひーちゃんが器用にビールの缶をななめにへこませて、ぐるりとねじってペシャンコにしている。がしょ、がしょ、という音が粗くて気持ちいい。風人はそれを未だにうまくできない。
尾崎と付き合って一年。友達は、風人とひーちゃん。
東京に出てきたあたしの両手はそれでいっぱいだ。
いつのまにか本当に眠っていた。起きたときにはもう午前十時をまわっていて、相当高いところにある太陽がまるで美しいものみたいにこの街を照らしていた。ふたりとも、黙って出ていくことないのに。別に起こしてくれたっていいのに。
「あ、せんたくもの……」
誰もいないのに一応そう呟いて、あたしは洗濯機の中を覗いた。やっぱり。ドラムの中には、半荘終わったら干そうと思って脱水まで終えていた衣服たちが、ずっしり固まって佇んでいた。もういいや、と思って冷蔵庫を開ける。冷えた麦茶のきれいな色に、自分の顔が映る。
歯を磨いたら、キスの感覚を忘れてしまうだろうか、なんてガラにもないことを考えた。ていうか、忘れるべきなんじゃ? とも思った。そんなにたいしたことじゃないし。心の中でそう呟いて、尾崎の口癖が自分にうつっていることに気づく。
そんなにたいしたことじゃない。
尾崎はそう言ってあたしに笑ったり触ったりする。あたしは、その言葉に安心したり不安になったりする。
大学に入ってから、もう十三カ月が経つ。一年以上経ったというよりも、十三カ月経ったというほうがきっと正しい。一年、というくくりではなくて成長しない一カ月がとりあえず十三回くりかえされた感覚だ。
成長しない一カ月がこんなにも積み重なって、あたしはもう十九になってしまった。あたしが子どものころに想像していた十九は、こんなふうに、ぐしゃぐしゃになった洗濯ものを放っておいたりはしなかったはずだ。
「汐梨はマジ美人だし、R大行っても目立ちそー!」
地元、群馬の友達は赤に近いピンク色をしたつめをぴかぴかに光らせながら、あたしを送り出してくれた。彼女たちいわく、あたしは、群馬っぽくない、らしい。それがどういう意味なのかはよくわからないけれど、地元に残ることになった友達はそろってあたしのことをうらやましがっていたから、きっと悪い意味ではないんだと思う。
大学の講義でクラスメイトに初めて会ったとき、あたしは直感的に「むり」だと思った。「むり」という気持ちが、無意識のうちにすこーんと頭の中で直立していた。茶柱のように不意な直立だったから、逆らう気にもなれなかった。
みんな、必死に「大学生しよう」としている。ない目を無理やり見開いて互いを品定めしている女子群も、似合わないM字バングに全力を注いでいるような男子群も、むり。きっと本人たちも自分たちの滑稽さには気づいてはいるのだろうが、それでもどうしてもむりだと思った。
自販機で微糖のミルクティーを買って、一人で教室の端の方に座った。女子たちの視線を感じる。なんとなく女子のリーダーっぽいポジションをゲットしたらしき栗色の巻き髪が「ラインでグループ作ろー!」と言い出した姿を右目だけで確認して、あたしはペットボトルのキャップをひねる。クラスのリーダーやりたがるやつって、それだけで、どう考えてもむりだ。大学生になってまで、そういうことをしたがる気持ちが全然わからない。
あたしの周りに、授業がはじまるまでに座ったのはふたりだけだった。まず、ひーちゃん。ひーちゃんが教室に入ってきたとき、栗色巻き髪が「負けた、やばい」という表情になったのが分かった。宝石みたいに光る長い黒髪と、アイラインもいらない猫のような強い瞳は、どう考えても誰よりもきれいだった。栗色を取り囲んでいた女子たちも、明らかに、「あっ」という顔をしていた。私たち、落ち着く島まちがえたかも。
ハイ、リーダー交代。一瞬だったな、栗色の天下。あたしは緩みそうになる口元にぎゅっと力を込めた。
ひーちゃんに話しかけようとして、女子のうちのひとりが駆け寄っている。春の小川のようにひらひらゆれる黒髪に声をかける寸前、
「教室の入口に集まってるの、邪魔だよ」
ひーちゃんは青く澄んだ声を放ち、背筋をぴしゃりと伸ばしたままあたしの方に歩いてきた。あたしは心の中でその姿に拍手を贈っていた。ブラヴォー! ワンダフォー!
そのあと、明らかにおどおどしている小型犬系男子が、風に運ばれるたんぽぽの綿毛のようにふらふらと教室のはしっこまでやってきて、誰にも気づかれないように根を張った。風人、という名前を聞いたとき、あたしは思わず吹き出してしまった。ぴったりすぎる。
*
窓を全開にする。陽射しが、あたしの輪郭を熱く熱くなぞってゆく。
風人にキスされたって話したら、尾崎、なんて言うかな。そんなにたいしたことじゃないって、いつもみたいに言うのかな。
どう考えても、洗濯もの、干した方がいい。あたしはがっしりと手を繋いでいる衣服同士をほどいて、赤いプラスチックのかごに放り込んでからベランダに出た。
さっきまでここにいたひーちゃんと風人のにおいが外へ逃げていく。もともとここは知らない街だけど、ベランダに立ってちょっと上から眺めてみると、もっともっと知らない街に見える。もう一年もここに住んでいるのに、ここが、あたしの「学生時代を過ごした街」になるなんて信じられない。いつかあたしはこの街のことを、懐しい思い出とともに誰かに話したりするのだろうか。もしそうだとするならば、それなのにどうしてこんなにも他人が集まった街に見えるんだろう。あたしはもうほとんど乾いているSPINNSのTシャツを、ばっさばさと伸ばす。なぜかちょっと感傷的になってしまった気分も一緒に、空気中に放つ。
一人暮らしにももう慣れた。こうしていたらきっと、すぐに二十歳になる。
ひかりの粒をたくさん含んだ空を見る。あの空をノックしたら、向こう側の人がぺろりーんって空をめくって現れて、この世界をぐっちゃぐちゃにしてくんないかな。そしたら尾崎、そんなにたいしたことじゃなくなくね? みたいになっちゃうかも。そんなことを考えながら、あたしは今日の授業をサボろうと決めた。