彼氏がいるのに、別の人にも好意を寄せられている汐梨。バイトを次々と替える翔多。絵を描きながら母を想う新。美人の姉が大嫌いな双子の妹・梢。才能に限界を感じながらもダンスを続ける遙。みんな、恥ずかしいプライドやこみ上げる焦りを抱えながら、一歩踏み出そうとしている……。直木賞作家、朝井リョウの『もういちど生まれる』は、若者だけが感受できる世界の輝きに満ちた、爽快な青春小説だ。その冒頭部分を、特別にご紹介します。
* * *
今日のひーちゃんは、長い黒髪をお団子にしてまとめている。エプロンこそつけていないけれど、きっとこれは世の男子の理想をそのまま形にしたような姿なんだと思う。
「はい、鮭焼こ。お味噌汁もあるからね」
ひーちゃんはごはんの甘いにおいに満ちた湯気の中でほほえむと、ためらいなくあたしから鮭を奪った。やっぱり甘塩だよね、と満足そうにうなずいて、コンロをひねる。もちろんアパートにグリルなんてないから、魚だってフライパンで焼く。冷凍しようと思っていた二切れ目もしっかり焼かれる。あたしはひーちゃんの横顔を見つめたまま靴下を脱いだ。ひさしぶりに空気にふれた足先から、す、と現実に参加していく。
「鮭、弱火でじっくりねー」
あたしはベッドの上にとぷんと横になる。火を通す前のホットケーキ生地に放り込まれたチョコチップのように、ぬくぬくと体が埋もれていく。今日一日の疲れが体の中でじっとりと熱されて、手足の先から見えないけむりとなって蒸発していくみたいだ。じうじう音をたてながら鮭を焼くひーちゃんは、今日も背筋がピンと伸びている。
その姿は水平線みたいだ。いつ見てもまっすぐで、ぶれない。見えない一筋の光のようなものが、す、と背筋を貫いている。すごくきれいだけど、とてもとても遠いから、誰も手に入れようなんて思わない。何にも交わらないで、自分を境に空と海を分けている水平線。
どうしてだろう。あたしはひーちゃんを見ていると、不安になるときがある。まっすぐ、揺れない、そのままの姿で、ある瞬間に突然、すべてが消えてなくなってしまうんじゃないかと思うときがある。
「この鮭、あぶらたっぷりすぎない? 揚げてるみたいになってきたけど」
口を尖らせながらもひーちゃんは楽しそうだ。魚から出るあぶらは肉のそれと違ってやさしいにおいをしている。たきたてのごはんのにおいと混ざって、それだけでもう十分おいしそうだ。じうじうにぱちぱちが加わると、もう自然と口の端からはじんわりと唾液が生まれてしまう。
ひーちゃんは初日、クラスの女子を敵にした。ケーキを切ろうとして、とりあえずいちごをどけておくように、ひーちゃんは教室の入口にたまっていた女子たちに「邪魔だよ」と言った。あたしも確かにクラスメイトたちとうまくやっていくつもりはなかったけれど、敵にするつもりもなかったから、ひーちゃんのその態度に少し驚いた。だけど、ロウソクを全部吹き消したみたいに気持ちがすっきりとしたことは確かだった。そのあと、あたしに向かって「ひかる。あたしの名前」とだけ言って、となりに座った。風人に対しても、同じ自己紹介だった。
ひーちゃんは間違っているものを間違っていると言う。そのせいで敵が増えるとか、そういうことはあまり考えていないように見える。
お団子からこぼれている黒い髪の毛が、息をしているようにすらすらと揺れている。
なのに、ひーちゃん自身は息をしていないみたいだ。何十年後も、今の姿のまま生きているか、今すぐ消えてなくなってしまうか、そのふたつの運命のはざまにいるように見える。
あたしは上半身を起こす。
「ひーちゃーん」
「なにー」
「これ、何ギガ?」並べられた茶碗のあいだに置いてあった見慣れないiPodを手に取ると、ひーちゃんはうんざりした顔をした。
「もう、なんなのギガって……怪獣かなんか? 店員にもギガギガ聞かれたけど、意味がわかんなかったから言われるがままに買ってやったのよ」
ひーちゃんはデジタルなものに弱い。携帯は未だにガラケーだし、ラインもSNSもやっていないからメールか電話でないと連絡がつかない。
「で、何ギガ?」
「ろくじゅうよん」
「ろくじゅうよん?」あたしは、素っ頓狂な声でその数字をオウム返しにしてしまう。
「何よ」
「ろくじゅうよんって……どんだけデータ入れるつもり」
「入れ方わかんないんだから何にも入らないわよ。使い方わかんないから全部シャッフルで聴いてるしっ! あぶらがはねるっ!」ひーちゃんは飛びはねながら、iTunesとか? ダウンロードしなきゃダメなの? と、説明をしてほしいわけでもないふうに言った。
「なんで買ったのかがあまりにもわかんなくて面白いよ」あたしはそう言いながらひーちゃんの黄色いiPodを起動させる。勢いで買ってしまったのであろうプラスチックケースがうまくはまっていない。耳の穴にぴったりとはまる耳栓型のイヤフォンだけがしっかりとしたもので、余計に情けない気持ちになる。
「やっぱり……」少し操作をしてみると、想像通り、すべてが「不明なアーティスト」になっていた。iTunesとかをうまく使えないから、パソコンに入っていた曲を適当に入れてみたのだろう。
「曲名入りでちょっと入れといてあげるー」
適当に二、三曲同期させたところで、ひーちゃんが皿を二枚持ってやってきた。
「鮭、おいしそう。私、天才。なんか夜なのに暑いね」
「あんた鮭焼いてたからだよ」
受け取った皿の上では、しっかりと焼かれた鮭が表面をじゅくじゅくと泡立たせていた。一切れ七十七円でごはん二杯はいけると思うと、鮭は偉大だ。
「尾崎くんとうまくいってんの?」
鮭に甘いみそをつけて食べるひーちゃんのために、アパートの冷蔵庫にはチューブに入った液状のみそが常備されている。甘くてあたたかい鮭のあぶらが、顔全体にふっと抜けていく。
「んー……」
甘くてあたたかい。
一瞬だけ口のまわりで蘇った風人のキスを、あついものでも冷ますようにあたしは軽く吹き飛ばした。
「ひーちゃん、もうあたしら二十歳だよ」
「どうしたの、急に」
「んーなんか、あたしが子どものころ想像してた二十歳って、こんなんじゃなかったもん」
「こんなんって? 勝手に家入られてること?」
「それは二十歳関係なく想像してなかったんだけど……」
あたしの言葉に、ひーちゃんはふっと笑った。ひーちゃんは、鮭やお味噌汁がなくなるのと同時に、ご飯を一粒残さず食べきる。食事をするのが上手なのだ。
「そんなの、私だってそうよ」
ひーちゃんが、かつて想像していた未来と違うふうになっているなんて、そんなのウソだと思った。
「あと二十年経っても、私、鮭焼いてると思うよ。そういうことだと思うよ、きっと」
「そういうことって、なにが?」そう訊いても、ひーちゃんはちゃんと答えてくれない。完全にごまかされている気がする。
ふいに、あたしは、風人のキスのことをひーちゃんに話そうかと思った。だけどなんとなく、やめておいた。
鮭がおいしい。ごはんがすすむ。
「……尾崎、ヤキモチ妬いてくんないんだよね」
あたしは、汗をかいているグラスを握って麦茶を飲む。それがさみしい、という言葉もいっしょに、飲み込む。
「あんたいつからそんな乙女なこと言うようになったのよ」
「ね。二十歳近くなってヤキモチ妬いてほしいとか、ダサすぎる」
ひーちゃんはもごもごと口を動かしたと思ったら、くちびるの間からにょろりと骨を出した。
「……聞いてる?」
「ごめんごめん、骨出してるわりに聞いてる」
「ほら、あたしってきれいだからさ」
「せっかくちゃんと聞こうと思った途端なにその発言」
「ちょっとは浮気の心配とかしてくれたっていいのになって」
頭の中で、無理をした茶髪がゆっくりと近づいて、あたしの閉じた瞳に少し触れる。起きてたよ、と思う。かすかに声に出して言ってみる。
ふ、と小さく息を吐くと、小さな風人の小さなキスがもっと小さくなって、ぽくんと宙に浮かんだ。
「あたしが他の人のこと気になっちゃうかもしれないとか、その逆とか、そういうこと尾崎は全然考えないのかな」
地元の友達には絶対に言わないようなセリフでも、ひーちゃんの前でなら言えてしまう。ひーちゃんは口の周りを拭いたティッシュを小さくまるめて、「汐梨」とあたしの名前を呼んだ。ほんのりと味噌の色をつけたティッシュは、テーブルの上でゆっくりと開いていく。
「ふたりは、好きって伝え合える関係なんだよ、そんなにもしあわせなことってないよ。しかもこうやって、第三者に相談できるくらいオープンにね」
ひーちゃんは急に、あたしの背中をそっと撫でるように言葉を放つ。そういう時は必ず、やさしさが膜を張ったような瞳をしてあたしのことを見ている。あたしはそんな時いつも、ひーちゃんの背景が見えなくなって困る。ひーちゃんが何を背負って生きているのか全くわからなくなって、そのはらはら揺れる瞳の泉が少し、こわくなる。
今もそうだ。
「おいしいね……米」
そっち? とちゃっかり突っ込んでから、似合わない市松メガネがまた来た、と話したら、「私、虹色メガネしてるひとなら知ってる」とひーちゃんが目を大きくしたので笑ってしまった。「そんなひといないよ!」「それがいるのよ、入学したころ行ってみた映画サークルにね、いたの。その虹色のせいでこっちは逆に色んなものが見えなくなるのよ」ひーちゃんは真顔でそんなことを言うので、あたしはなおさら笑ってしまう。
食器を片づけたあと、思い出したように窓を開けて、あたしたちはお酒をちびちび飲んだ。魚を食べたから、今日は日本酒。ひーちゃんもあたしもそれなりにお酒は強いので、風人というストッパーがいないととにかく飲み続けてしまう。風人は「お酒ってお腹がふくれるじゃん」と言ってすぐに飲まなくなるが、あたしとひーちゃんはその言葉の意味がわからない。
何を話したかはよく覚えていないけれど、授業の疲れもあってあたしはとろとろと眠くなっていた。窓を開けていても、五月の部屋の中はもうしっとり暑い。
「Tシャツとスウェットとか借りたいんだけど」
ひーちゃんがきょろきょろと部屋を見渡しながら言う。「クーラーはまだつけないよ」きっとリモコンも探しているのだ。ひーちゃんは唇を尖らせながら、新しくカシスウーロンを作り始める。カシスウーロンなんてそんなジュースみたいな、と思ったとき、部屋が暑い気がしているのは酒のせいだとやっと気付いた。いつのまにかけっこう飲んでいたようだ。
「また夏がくるね」
「変わりばえのしない夏がね」
ほんと変わりばえしない、と笑って、あたしはベッドに体をあずける。変わりばえのしない夏、という言葉は、なぜかとてつもなく幸福な言葉のような気がした。