彼氏がいるのに、別の人にも好意を寄せられている汐梨。バイトを次々と替える翔多。絵を描きながら母を想う新。美人の姉が大嫌いな双子の妹・梢。才能に限界を感じながらもダンスを続ける遙。みんな、恥ずかしいプライドやこみ上げる焦りを抱えながら、一歩踏み出そうとしている……。直木賞作家、朝井リョウの『もういちど生まれる』は、若者だけが感受できる世界の輝きに満ちた、爽快な青春小説だ。その冒頭部分を、特別にご紹介します。
* * *
去年の夏、都内の大きな花火大会がテレビで中継されていた日。あたしとひーちゃんと風人は、何に対抗してか三人で手持ち花火をした。街は誰かのための浴衣でカラフルに彩られ、あたしたちは示し合わせたように全身を見事なモノトーンで決めていた。とりあえずコンビニで花火を買って、人の流れとは逆方向に歩き、なんていう名前なのかもよくわからない川で花火に火をつけた。ただ、橋の入口に立っていた「二級河川」という標識に対し、二級かよ! とツッコんだことは覚えている。肝心の花火は、風人が持ち手のほうに火をつけたため、暗闇の中で静かに失敗を悟るという悲しすぎるスタートを切った。
「また、花火したいね」
いっぱいにふくらんだお腹にてのひらを置いて、あたしは目を閉じる。
むきだしのふくらはぎに草が触れたときのくすぐったさを思い出す。サンダルで数十分動き回っただけで、一体どれだけ虫に刺されたのか、次の日から足がかゆくてかゆくてしかたがなかった。
たっぷりとふくらんだ線香花火の玉のひかりに、あたし達三人の顔がぼうっと照らされている。
この火の玉をいちばん長く落とさずにいたひとが、いちばんしあわせになれるってことね。
ひーちゃんは闇よりも純度の高い黒色をした髪を揺らしながら、誰よりも早くその場にしゃがみこんだ。あたしと風人もそれにならった。風人の花火は一瞬で力尽きて、あたしとひーちゃんの花火の玉がぷくぷくと震えながら光の線を飛ばしていた。
頼りない光が、下からあたし達の顔を照らしていた。小さくしゃがんでいるので、目の前に汗ばんだひざがあった。あたしは少し舐めてみて、そのしょっぱさに胸が苦しくなったことを覚えている。
ひざこぞうに浮かんだ汗は、少女の味がした。目つきが怖いという理由だけで、クラス中の女子から無視されていた小学四年生のころの味。
土手を歩く浴衣姿の人たちは、あたしたち三人の頭がきゅっと集まっているのを見て、何を思っただろう。
かこかこと鳴る誰かの下駄の音を背中で感じながら、あたしは、いま三人ともがいちばんしあわせだと思った。体の中すべて、血管の内部も内臓と内臓の間もすべて、しあわせが埋め尽くしていると感じた。線香花火の玉は、あたし達の過去や未来、期待や不安や失望や夢、すべてを含んで、たっぷり、たっぷりと膨らんでいるんだと思った。火の玉は、なみだのようにふるふる震えてこぼれおちそうに揺れていて、先に落ちたのはどちらだったか、あたしは頭の中で時を追って思い出す。
レースから外れて手持ち無沙汰になっている風人のてのひらと、まだひかっているあたしとひーちゃんの線香花火。きれいな三角形を描いて、夏の夜に浮かんでいる。火の玉が落ちる。落ちる。震えて落ちる。ああ、とあたしは大きく息を吐いた。線香花火の危うさは、ひーちゃんに似ている。
震えた。
あたしは目を覚ます。やはり少し寝ていたようだ。ひーちゃんはiPodを真剣な表情で見ていた。あたしが起きあがるとそれを隠すように、「携帯鳴ってたよ」と教えてくれる。震えたのはあたしの携帯だったらしい。
近くに転がっていた携帯を手に取って、もう一度ぼふんと寝転がる。
【へたれ(かざと)】
こんなにバカバカしい名前が画面に現れているのに、あたしは腹の上を誰かに踏まれたように一瞬で全身を力ませた。そういえば、あの日以来風人とは会っていないし、連絡も取っていなかった。
表示、という二文字に触れる。
【相談っていうか助言してほしい
好きになっちゃいけない人を好きになったときって、どうしたらいいのかな】
大学生とは思えないくらい幼い風人の声が、耳の中で溶ける。そんなこと聞かれたって、どうしたらいいかなんてあたしはわからない。携帯の画面が自然に暗くなるまで、あたしは風人の声の形をしたデジタル文字を見つめ続けた。風人がこんなメールをしてくる人だとは思わなくて、なぜだか少しだけ悲しくなった。
変わりばえのしない夏。そう思っていたけれど、少しだけ、変わってしまったことがあるのかもしれない。
「ひーちゃん」
「ん?」
「『好きになっちゃいけない人を好きになったときって、どうしたらいいのかな』」
あたしは寝ころんで暗くなった携帯の画面を見つめたまま、風人からのメールを読みあげた。ひーちゃんの顔は見えない。白い天井が、少し汚れている。
「……『好きになった』とき、って、もう好きになってるんだから、どうしようもないじゃない」
やっぱり、ひーちゃんの顔は見えない。だけどわかる。ひーちゃんはきっと、やさしさでできた膜に瞳を浸らせて、寝転んだあたしを見下ろしている。ぷっくりとふくらんだ線香花火みたいに、何もかもを含んでまるくひかる瞳で、あたしを見ている。
いつ消えてしまうかわからないようなひーちゃんは、線香花火に似ている。
いつの間にか眠ってしまった。ひーちゃんは、あたしが眠ったあとも起きていたようだ。結局Tシャツもスウェットも貸すのを忘れていた。始発が動き出すころ、あたしはほんの少しだけ目を開けて、早朝の風にひらめく黒髪を見送った。
「彼氏、かっこいいよね」
大嶋さんがあたしの二の腕を突っつく。
「かっこいいから付き合ってるんですよ」
ひゃああ~と肩を抱いて悶えるようにする大嶋さんは、三十九歳に見えない。あたしが大学に入る前からこのパン屋でアルバイトをしているので、大嶋さんはお店のことならなんでも知っている。前にいた女の子は常連の男の子と付き合ってやめたとか、火曜の昼間はイケメンが多いとか。客の有無に関係なくからからと無駄話をするので、退屈しなくておもしろい。
「この前も来てたよね、彼氏」
「あの前日、彼のアパートに泊まってたんですよ」
ひゃああ~! 大嶋さんは、友達の初体験話に驚く中学生みたいな反応をする。男子が教室で着替える様子を、顔を隠す指のすきまからしっかり凝視している感じだ。そんな反応がかわいいので、二十歳近く年上の大嶋さんに対して、ついからかうように話してしまう。
「やっぱ最近の大学生は連れ込むのよねえ」
「いやいや……中学生の息子さんだって、まさにいま連れ込んでるかもしれませんよ」
ひゃああ~! この叫びを三回聞くとあたしはもう満足する。コジローももうすぐそうなるのかしら、と今年中学校に入学した息子の名前をつぶやきながら、大嶋さんはお客さんに対応する。息子にコジローという古風な名前をつけるセンスが、あたしは好きだ。
前、大嶋さんに、「学生時代どんなだったんですか?」と訊いたことがある。すると大嶋さんは、小学一年生のランドセルみたいに赤い顔をして、「あなたのようなきれいで目立つキラッキラした女子大生……のうしろにいっつもいたわ。うらやましくって」
と、はにかんだ。あたしは大嶋さんの決して細くも長くもない足を見て、コジローはこんな母親を持ってしあわせもんだな、と思った。そのあと「あたしなんかよりもっとキラッキラな子いますよ」と、ひーちゃんを連れてきたときは、やっぱり「ひゃああ~」と驚いていた。そして、なぜかついてきた風人に向かって「あなた、この子の彼氏?」と訊いてしまい、風人のみ照れたように頭をかくという茶番劇が繰り広げられた。
風人は照れると頭をかく。あのキスをしたあとも、誰も見ていない中で人知れず頭をかいたのだろうか。
「お前、いつならちゃんと働いとるわけ?」
喉の内側をぐんと押すような低い声が降ってきた。大嶋さんが、短く「あ」と声を漏らしたのがわかる。尾崎は「ボーッとしすぎ」とあたしの頭を小突いた。
「……またかわいいパン買うの?」
あたしは、トレイに載せられたチョコチップスティックとりんごカスタードパンを見ながら、片頬だけで笑った。大嶋さんがとなりのレジで別の客の対応をしている。いつもよりも声が弾んでいるところがほんとうにかわいい。大嶋さんは尾崎がわりとタイプらしい。
「俺甘党やからさ」
「知ってるっつの」
「納豆よりも甘納豆やからさ」
意味わかんないよ、とあたしは笑いながらレジキーを押す。尾崎の後ろに広がっている景色が、なぜだかとても遠いもののように感じる。
キャンパスの中の日差しは、学生の息吹きを含んでそこらじゅうで輝く。そのひかりを背後に立つ尾崎の姿が、なぜだか、よく見えない。
あたしはなんだか危ない気がした。何がどのように? 具体的にはわからないけれど、だからこそ、一番危ない気がした。
「ねえ、今日泊まりに行く」
金曜日だし、土曜授業取ってなかったよね? あたしは小銭を受け取りながら、今度は両頬で笑った。この笑顔はうそっぽくないはずだ、とあたしは思う。だってどこにもうその気持ちなんてない。大嶋さんが「あらまっ」という顔をし、隣で耳をそばだてているのがわかる。
「授業何限までだっけ?」
聞きながら、あたしは少し目線を逸らす。
「ごめん」
左耳から入ってきた尾崎の低い声と、右耳から入ってきた大嶋さんの「ありがとうございました」が、鼻のあたりで混ざり合う。照れにより逸らした目線の行き場がなくなる。
「今日は無理や。ホラ、俺、明日からクラス合宿で河口湖いくからさ」
朝早いんだよな、荷造りまだしてねえし、と言うと、尾崎は買ったばかりのチョコチップスティックを店内でかじり始めた。
尾崎のクラスは仲がいい。きっと見た目が八十点くらいの女子がたくさんいて、明るいやんちゃな男子もたくさんいて、バーベキューとかスノボとかいつも皆で行くような感じで、つまりそれは、あたしが自分の教室に入ったときに真っ先に切り捨てた世界だ。
尾崎が、日差しに吸いこまれていく。その姿がどんどん遠くなっていく。