彼氏がいるのに、別の人にも好意を寄せられている汐梨。バイトを次々と替える翔多。絵を描きながら母を想う新。美人の姉が大嫌いな双子の妹・梢。才能に限界を感じながらもダンスを続ける遙。みんな、恥ずかしいプライドやこみ上げる焦りを抱えながら、一歩踏み出そうとしている……。直木賞作家、朝井リョウの『もういちど生まれる』は、若者だけが感受できる世界の輝きに満ちた、爽快な青春小説だ。その冒頭部分を、特別にご紹介します。
* * *
「合宿? 明日から? そっか」
こういうとき、人間ってどうしてこんなに不出来なんだろうと思う。それとも、なんでもない振りがこんなにもへたくそなのは、あたしだけなのだろうか。
「言ってなかったっけ?」
尾崎は、ちょっぴり指についたチョコレートを器用に舐める。
「聞いてないよ」
「言ってなかったっけ」
尾崎は最後のひとかけらを口の中に放り込む。
「まあ、そんなにたいしたことやないし」
おみやげ買ってくっから、と言い残して、尾崎はひかりの中へ消えていった。学生たちが抱く、明日からの休日への期待がたっぷりと溶け込んだひかりの中へ、広い背中が消えていく。
「男が言うたいしたことじゃないって、女にとっては、たいしたことなのよね」
大嶋さんが、あたしにチョコチップスティックを差し出した。「私のおごり。こういうときは、甘いものよ」かっこいいことするなあ、と笑いそうになりながら、あたしはそれをくわえる。舌の先っぽにチョコチップがあたって、ほんのりとした甘さが舌の上に広がった。
同じチョコレートなのに、ちがう。尾崎のアパートで食べたシュガーコーンのチョコは、もっともっと美味しかった。
「店員なのに、堂々とパン食べてるのおかしいよね?」
尾崎と入れ違いに入ってきた客が風人だということには、声をかけられるまで気がつかなかった。
「あらまあ! あの美人さんの彼氏さんじゃないの」
大嶋さんがあたしより先に素っ頓狂な声を出す。「風人、頭かいてないで否定しな」あたしはちゃんと注意する。
パンの甘いにおいの中を、風人はてくてくと歩き回る。ストラップの部分がだらんと長いリュックは、風人の小さなおしりをほとんど全部隠してしまっている。
メールのことには、お互いに触れない。
「ねえ、さっき話してたのが尾関くん?」
風人はパンを選びながら、すこし大きな声を出す。「そうよぉ、かっこいいよねぇ」となぜか大嶋さんが先に答える。尾関じゃなくて尾崎なのに、とあたしは思う。
「風人、尾崎としゃべったことなかったっけ」
「うん、実は会ったことすらない」
この蒸しパンもしかして焼き、蒸したて? 風人はうれしそうに声を弾ませながら、ほのかに湯気をのぼらせているくるみ蒸しパンをトングでつまむ。それも、たった今たまごから孵ったばかりのひよこを扱うような慎重さで。焼きたて、をわざわざ蒸したて、に言い直すところも、風人らしい。
「あたしの彼氏、かっこいいっしょ」
あたしは、いつものようにそう言った。言ったあと、あ、と思った。
「……そうだね」
そう答える風人の顔は、あまり、見たことのない表情をしていた。
尾崎、こう見えて、あたしにはたいしたことがたくさんある。尾崎にはそんなにたいしたことじゃなくても。
「おれもこれにした」
風人はすっかり冷めてしまっているチョコチップスティックを持ってきた。「この、取れちゃってるチョコもちゃんとちょうだいね」
風人は小さなことを気にする。
「甘いもんばっかり買うんだね」
あたしがそう言うと、風人はリュックの中から財布を探す。風人の小さな背中では遮ることの間に合わなかったひかりが、あたしを直接照らした。
「だって、汐梨がすごくうまそうに食べてたから」
風人の頬には、小さなえくぼがある。指でそっと押さえたくなるような、小さなスプーンで一口だけ食べられてしまったゼリーのくぼみのような。白い肌にすこしだけできる陰を見ながら、気がついたらあたしはこう言っていた。
「週末、あたしんち来ない? 鮭があるから」
あんな言い方したら、うちにおいしいお酒があると思ったかな。大学生なんだから、鮭よりもその誘い方のほうが絶対自然だし。いや、それよりもあのとき大嶋さんが放った「ひゃああ~」のほうが風人にとっては不自然だっただろうけど。
きっとあの三十九歳は、あたしが浮気をすると思っている。もしかしたら家に帰ってコジローに話したかもしれない。そしたら、コジローも今頃、あたしが浮気をすると思っているだろう。
部屋に掃除機をかける。トイレのスリッパをそろえて、本棚の漫画をちゃんと巻数順に並べておく。
どうして風人を家に呼んだのか自分でもよくわからない。ただ、尾崎がいない間に、あのうさぎの足跡みたいなえくぼを突っついてみたい、と思ってしまった。
風人はあのあと、「うん。日曜に行くよ」という言葉をおそるおそる転がして、パン屋から出ていった。あたしはとなりでうずうずしている大嶋さんと目が合わないようにしながら仕事を終え、今日、土曜日という二十四時間をまるまる持て余している。
ひとりは嫌いではないけれど、ひとりのときに部屋を貫くように差し込んでくる太陽は嫌いだ。ひとりのあたしに、あたしはひとりだとまんまと思わせるからだ。窓から外を見たりなんかすると、アスファルトでさえ宝石でも紛れ込ませているかのようにきらきらしているように見える。太陽は、ひとりの自分を嫌いになるようにしむけてくる。
ひーちゃんにメールしよっと。ベッドに寝転んだまま携帯のロックを外す。すると、去年の秋、尾崎と観に行った京都のもみじがあたしを出迎えてくれた。左端に映り込んでしまった不格好なピースサインから、尾崎の笑顔がにじんで見える。もみじを見て、きれいやなと笑う尾崎の頬にはぷくんとしたえくぼがある。
ちがう。えくぼがあるのは風人だった。
電話だ。
反射的に通話ボタンを押していた。間髪を容れずに出てしまったので、尾崎のほうが言葉に困っていた。
【……出るの早くねえ?】
「メール打ってた途中だったから」あたしはうそをつく。
【ふうん】
「今バス?」
【そうそう】
いまコテージ向かう途中、という尾崎の背後から、知らない声がたくさん聞こえてくる。ただ別の場所にいるというだけで距離を感じるのに、周囲の声が、ますます尾崎とあたしの距離を広げているように感じた。
【お前、最近なんか元気なくない?】
慣れない言葉をいう尾崎は、慣れない気持ちを丸出しにした調子で話す。
「……そうかな?」
【昨日話した時も、元気なかったっぽいし】
あのとき、尾崎の背後でさわさわと揺れていたひかりを思い出す。あたしがまぶしいと感じた、尾崎の背負うひかり。
「尾崎は」
【ん?】
「尾崎はたいしたことじゃないって思っても、あたしにとってはたいしたことが、たくさんあるんだよ」
たくさんあるんだよ。もういちど確かめるようにそう言って、あたしは電話を切った。なんだろうと思った。なんでこんな気持ちになるんだろうと思った。あたしはどこまで子どもで、いつまで子どもでいるつもりなんだろう。
いつまで子どもでいていいんだろう。いつまで、思ったことを上手に伝えられないままでもいいんだろう。たくさんのことができないまま、いつからあたしは大人になってしまうんだろう。
こうやって寝転んでいると、あるはずもないプラネタリウムが壁に浮かび、風人のキスがそっと落ちてくる。絶対に重ならないふたつなのに、きれいに重なった。
ひーちゃんにメールしようと思ったけれど、土日はいつも麻布十番でバイトをしているんだった。風人にメールしようと思ったけれど、土曜は用事があるから約束が日曜になったんだった。
尾崎とひーちゃん、風人。三本指を折れば、あたしはもうそれで終わってしまう。他にももちろんアドレスを知っている友達やバイト仲間はいるけれど、自分からすすんで連絡を取ろうとは思わない。そういうとき、もしかして、自分という形は今後一切変わっていかないのかもしれない、と思うことがある。
両方のてのひらから時間をこぼし続けながら、あたしはひーちゃんの瞳を思い出していた。間違いを間違いとして見つめ、やさしさの膜を張った力強い瞳。それは線香花火と重なる。さまざまな思いをたっぷりと含んで、まんまるに膨らんだあの光に似ている。下から照らされた、小さな小さなえくぼ。いちばん長く燃え続ける人は誰だろう。いちばんしあわせなひとはだれだろう。問いかけるように光は少しずつ大きくなって、やがてそれはなみだのような形になって、今にも落ちそうにふるふる震える。
携帯が震えて、風人からの電話を知らせる。明日じゃないとダメだって言ってたクセに、と、たっぷりと焦らしてやってから電話に出た。
「なによー、来るの明日でしょ?」
いつも通り、炒めすぎたもやしみたいな情けない声が聞こえてくると思っていたあたしは、笑いそうになりながらもきちんと耳を澄ました。
【汐梨】
電話口からこぼれるように漏れてきた風人の声は、
【ひーちゃんが車にひかれた】
想像していた何倍も情けない声だった。
あたしの中でプラネタリウムの動きが止まって、風人のキスの余韻が止まって、時間が止まって、その分、心臓が速く動きだした。
【いまどこにいる?】
風人の声はたっぷりの戸惑いと涙に溺れていた。視界の端から順番に世界が固まっていく。
「……ひーちゃんが、何?」
【いま、病院に運ばれた。いま意識はないみたいだけど、命に別状はないって】
「どこに行けばいいの」
麻布十番駅、という風人の声を聞いてすぐ、携帯を切った。財布と鍵を持って、家を飛び出る。
変わりばえのない夏。そんなこと、ない。