東京で大学生活を満喫していた川尻笙は、突然の父の訪問で三十年以上前に失踪した伯母・松子の存在と、彼女が何者かに殺されたことを知る。部屋の後始末を頼まれた笙は興味本位から松子の生涯を調べ始める。それは彼にとって凄まじい人生との遭遇だった……。中谷美紀主演で映画化もされた、ベストセラー小説『嫌われ松子の一生』。物語の冒頭を、少しだけみなさんにお届けします。
* * *
平成十三年七月十一日付けの新聞記事より
「足立区日ノ出町のアパートに女性の死体」
十日午前九時頃、東京都足立区日ノ出町のアパート、ひかり荘一〇四号室で、ドアが開いていて異臭がするとの連絡を受けたアパート管理人が、部屋に入ったところ中年女性の死体を発見したと、警察に通報があった。死亡していたのは、この部屋に一人で住んでいた五十三歳の女性と見られる。女性の着衣に乱れはなかったが、全身に激しい暴行を受けた痕があり、また解剖の結果、死因が内臓破裂による失血死であることが判明したことなどから、警察では殺人事件と断定し、捜査を開始した。
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ドアの覗き穴から、目を離した。
居間に向かい、押し殺した声で、
「服を着ろ」
「誰なの?」
「いいから」
俺は、自分の服装を確認した。下は短パン、上はマリリン・モンローのTシャツ。おかしなところはない、と思う。
またチャイムが鳴る。居留守を使うことも考えたが、そこまで親不孝になりきれない。
チャイムが続いた。
俺は観念して、チェーンを外し、アパートのドアを開けた。最初に目に入ったのは、浅黒い額を流れる汗だった。その汗を拭おうともしないのは、白い布に包まれた箱を、両腕で抱えているからだ。
俺は声もなく、その男を見つめた。最高気温三十二度の中、鼠色の背広を着て、白い箱を持つ男。右肩には、茶色の大きなショルダーバッグ。汗が入ったのか、細く吊りあがった目を瞬かせた。分厚い唇は昔のままだが、短く刈り上げた髪には、白いものが混じっている。身体も一回り小さくなったような気がする。
「元気にしとったか?」
親父が、愛想のない声で言った。
「なんだよ、いきなり」
「まあ、ちょっと野暮用があったけん。笙に頼みごともあって」
親父が、箱に目をやった。
「来るなら、電話ぐらいしろよな」
「あがってよか? 東京がこげん暑かところとは思わんかった」
俺は後ろを振り返り、
「いいんだけど……」
「なんね、はっきりせんね」
「友達が来てるんだよ」
「それなら挨拶せにゃならん。ちょっとこれ」
親父が、箱を俺に押しつけた。意外に軽い。傾けた拍子に、ことり、と幽かな音がした。
「なにこれ?」
「お骨」
親父が、革靴を脱ぎながら、答える。
「誰の?」
「儂の姉」
「てことは俺の伯母さん? 親父方の親戚って、久美叔母さんだけだと思っていたけど。あ、ちょっと待てって」
親父は答えず、俺の横をすり抜け、狭いキッチンを突き進んでいく。相変わらず人の言うことを聞かない親父だ。
「ひゃあ、涼しかねえ」
居間の入り口に立った親父が、背広を脱ぎかけて、やめた。背広を着なおす。振り向く。細い目を、まん丸に剥いた。
「だから言ったろ、友達が来てるって」
俺は大股で、親父を追い越した。
明日香は、白い短パンにオレンジ色のタンクトップ姿で、カーペットに正座していた。間に合ったようだ。ショーツ一枚でパイプベッドに横たわったままだったら、親父が不整脈で倒れたかも知れない。
明日香が両手を膝に置き、笑顔を輝かせ、
「お邪魔してます」
と頭をさげる。さげた拍子に、タンクトップの胸元が大きく開き、白い谷間が丸見えになった。
親父が、あわてた様子で、目を逸らす。
「ええと、こちらは渡辺明日香さん、大学の友達」
明日香が、眉をあげて、俺を見た。柔らかそうな唇が、ともだち、と動いた。
俺は、明日香に向かって首を傾げ、
「うちの親父」
明日香が、笑顔を取り繕い、
「渡辺明日香です。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
と、わけのわからない挨拶をする。
親父が、うなずいていいものか、迷うような素振りをしながらも、こちらこそ、と答えた。すぐさま手の甲で、俺の腕を叩く。
「いて」
「ガールフレンドが来とるなら、はっきりそう言わんね」
親父が、口をへの字に曲げた。
「お父様、冷たい飲み物でもいかがですか?」
明日香が立ちあがった。
「いや、かまわんでよかよ。そんなら、ビールがあったらもらうたい」
明日香が、ぷっと吹き出した。
親父は、なぜ笑われたのか、理解できないような顔をして、突っ立っている。
「はい、ビールですね」
明日香が、キッチンに移る。俺とすれ違うとき、愛らしい瞳で笑いかけてくれた。
俺は、親父の前に、腰をおろした。骨壺の入った箱を、そっと置く。
「立ってないで座れよ。座布団はないから」
親父が、部屋を見回しながら、あぐらをかいた。ちなみにアパートの家賃は、1Kで六万五千円。JR西荻窪駅まで徒歩十分でこの値段なら、標準的なところだ。家賃は仕送りに頼っているが、生活費はバイトと奨学金でまかなっている。上京するときに、親と約束したのだ。
「けっこうきちんとしとる」
「いつ出てきたんだよ」
「きのう」
明日香が、缶ビールとグラスを持ってきた。グラスは一つだけ。
「あんたらは飲まんね?」
「俺たち未成年だから」
親父がうなずく。その未成年の部屋になぜビールがあるのか、という矛盾に気づいている様子は、まったくない。
「俺に頼みごとがあるとか言ってたけど」
明日香が、缶を両手で持ち、お父様どうぞ、とやった。
親父の頬が緩んだように見えたのは、気のせいか。素直にグラスを出し、注がれるビールを見つめている。注ぎ終わると、感謝するように軽くグラスを掲げ、ぐいと飲み干した。
「うまか」
明日香が、すかさずお代わりを注ぐ。
「で、頼みごとって何だよ」
「このことたい」
親父が、骨壺に向かって、顎をしゃくる。
「あのさあ、もっとわかりやすく話せよ。親父はいつも、省略しすぎなんだよ」
「笙、お父様にそういう口の利き方はないでしょ」
明日香が、頬をふくらませた。
明日香の顔は化粧っけがなく、髪も地のままの黒いボブヘアだ。化粧を必要としないほどの美女かというとそうでもなく、肌は白いものの目は小さくて、どちらかというと純和風の地味な顔だった。ただし、機嫌よく笑ったときは、むちゃくちゃ可愛い。
「ああ、よかよか。笙は昔からこげんばい」
親父が言うと、明日香は唇を尖らせたまま、うなずいた。
「儂の姉は、名前を松子といって、儂より二つ上やった。五十三歳になっとったはずばい。もう何年になるか、三十年くらい前に蒸発して、それっきりになっとった。それが三日前、東京の警察から電話があった。川尻松子ちゅうはお宅の身内ですかと」
「なんで警察が……」
「アパートで死んどるところを見つかったちゅうて」
俺は、ちらと骨壺に、目をやった。
「孤独死?」
「いや、殺されたらしか」
「こ、殺されたって……」
「身体中にひどい痕が残っとった。死因は内臓破裂だと」
「誰に?」
「犯人はまだ捕まっとらんち」
親父が、グラスを空けた。明日香が、一呼吸遅れて、ビールを注ぐ。
エアコンで冷えた空気が、さらに冷たくなったような気がした。
「あっ!」
明日香が声をあげた。
俺と親父は、同時に背すじを伸ばした。
「そういえば、新聞に出てましたよね。日ノ出町のアパートで、中年女性の死体が発見されたって。身体中に暴行の痕が残っていたから、殺人事件として捜査が始められたって書いてありました。もしかしてそれが……」
親父が、渋い顔をする。
「まったく、最後の最後まで、面倒ばっかりかけて」
「その、松子伯母さんて、どういう人だったんだよ。うちの親類一同で、東京に住んでいる人なんて、いないと思っていたけど」
「どうしようもなか姉やった。いや、そのことはもうよか。笙に頼みたかことちは、姉のアパートまで出向いて、引き払うための後片づけば、済ましてほしかとたい」
「後片づけ?」
「儂は明日一番で帰らなならん。どうしても仕事で抜けられん。きょうは姉を荼毘に付すのが精一杯で、アパートまでは手が回らんやった。不動産屋には話を通してあるけん」
親父が、背広のポケットを探り、四つに折ったメモ用紙を出した。
俺は、嫌そうな顔をつくって、メモを受け取った。開いて見る。ボールペンで、「ひかり荘一〇四号室」と、その住所らしき番地が殴り書きしてあった。相変わらず汚ねえ字だな、と思ったが、口にすると明日香が「笙には負けるけどね」と言うのが目に見えているので、黙っていた。メモ用紙の下端には「マエダ不動産」とやらの住所と電話番号が印刷してある。北千住の駅前商店街にあるらしい。ここからだと、西荻窪から総武線で秋葉原に出て、山手線、常磐線と乗り継がなければならない。けっこう時間もかかりそうだ。
「俺だって、そんなに暇なわけじゃないんだけどな」
「うそ。暇じゃない」
俺は横目で、明日香を睨んだ。
「だいたい松子伯母さんは、なんで蒸発したのさ。そのくらい教えてくれてもいいだろ」
「知らんでよか。川尻家の面汚し、それだけたい」
親父が、吐き捨てるように言った。口を真一文字に結ぶ。それきり何も言わない。
俺は、ため息をついてみせた。身体を後ろに反らし、両腕で支える。
「で、きょうの宿は?」
「……ホテルば探すばい」
「それならいいんだけど」
親父が、何か言いたそうな目で俺を見たが、俺は横を向いた。
また静かになる。
親父が、よいしょと唸って、腰をあげた。
「用件はそれだけたい。ごちそうさん」
「お父様、もう行かれるんですか」
「あんまり邪魔しても悪かろ」
「邪魔だなんて、そんなことないですよ」
親父が、俺の顔を見た。
俺は何も言わなかった。
親父が、骨壺を抱え、ドアに向かう。靴を履くとき、俺が骨壺を持った。傾けていないのに、ことり、と鳴った。
「じゃあ、元気でな。たまには電話せんね。母さんも寂しがっとる」
「ああ」
強烈な日射しと蝉の声がうずまく中、親父と松子伯母の骨は、出ていった。親父の背中が、小さく見えた。振り返りそうな気配がしたので、ドアを閉めた。