東京で大学生活を満喫していた川尻笙は、突然の父の訪問で三十年以上前に失踪した伯母・松子の存在と、彼女が何者かに殺されたことを知る。部屋の後始末を頼まれた笙は興味本位から松子の生涯を調べ始める。それは彼にとって凄まじい人生との遭遇だった……。中谷美紀主演で映画化もされた、ベストセラー小説『嫌われ松子の一生』。物語の冒頭を、少しだけみなさんにお届けします。
* * *
振り向くと、明日香が睨んでいた。
「なんだよ」
「泊めてあげればよかったじゃない。せっかく福岡から出てきたんだから。久しぶりに一人息子と語り合いたかったと思うよ。お父さん、かわいそうだよ」
「いいんだよ。うちはいつもこうだから。親子で語り合うようなクサい習慣はないの」
「じゃあ、せめて駅まで送ってあげようよ」
「そんなことはいいからさ」
俺は、明日香の腰に左手を回した。引き寄せると同時に、右手で胸をつかむ。
「続きをやろうぜ」
明日香が、俺の両手首をきつく握り、身体から引き離した。
「そういう気分じゃない」
明日香が、背を向けて居間に入る。俺は追いかけて、後ろから抱きついた。明日香が振り返る。ぱん、と肉を打つ音。少し遅れて、左頬が熱くなった。
「いいかげんにしろ! おっぱい揉めばいつでも気持ちよくなると思ったら大間違いだぞ!」
明日香が唇を固く結び、鼻の穴を膨らませる。
俺は、目を伏せた。上目遣いに、明日香の表情をうかがう。
「ごめん。悪かったよ」
明日香が、両手を腰にあてる。
「あたしね、親を大切にしない人って嫌いなの」
「粗末に扱っているつもりはないよ」
明日香が、床に落ちていたメモを拾いあげた。抱きついたときに落としたらしい。
「とにかくね、お父さんに頼まれたことだけは、ちゃんとやりましょ。まず、ここの不動産屋に行けばいいのね」
「明日香も来んの?」
明日香がメモから顔をあげる。半目になって睨んだ。
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど、人が殺された部屋だぜ。気持ち悪くないのかよ」
「殺されたのは、笙の伯母さんでしょ」
「会ったこともないし、そんな伯母さんがいることさえ知らなかったんだから、他人といっしょだよ」
ことり。
とつぜん耳の奥で、骨壺の音が蘇った。
俺は、背中に冷気を感じて、唾を飲みこんだ。
「……いや、他人というのは言いすぎ、かな」
「あのね」
明日香が、顔を曇らせる。
「ほんと言うと、最初に新聞の記事を読んだときから、気になっていたのよ」
「なにが?」
「殺された女の人のこと。五十歳すぎて一人暮らしで、最後にこんな死に方をしなければならないなんて……。どんな人生を送ってきたんだろうって、つい考えちゃって」
心の中で、へえ、と声をあげた。明日香の新しい面を、またひとつ発見。
「なによ、その呆然とした顔は」
「明日香さあ、新聞で殺人事件を読むたびに、そんなこと考えるわけ?」
「いつもってわけじゃないけど」
俺は笑いながら、明日香の鼻の頭を指でつついた。
「明日香はやっぱり変わってる」
明日香が、泣きだしそうな顔になった。なぜそんな顔をするのか、俺にはさっぱりわからなかった。
2
昭和四十五年 十一月
車窓から目を離し、網棚を見あげた。網を通して、旅行鞄の底が見える。父はいつから、これを使っているのだろう。わたしが物心ついたときには、家にこれがあった。父がこの鞄をさげて家を出ると、その晩は帰ってこない。母と弟と妹だけで夕飯を食べ、風呂に入り、眠る。子供心に、そう理解していた。この鞄を持つ父を見送るときは、寂しいような、ほっとするような、妙な気持ちになったものだ。その鞄を今、大人になった自分が使っている。
天井に備え付けてある扇風機を見やった。さすがにこの季節には止まっている。蠅が一匹、扇風機の脇を飛びすぎた。ゆっくりと飛ぶ蠅を目で追いながら、右手で下腹をさする。行儀が悪いと思ったが、こうでもしなければ、あと一時間以上ある旅程を乗り切れそうもなかった。スカートのベルトも緩めたいところだが、そこまで神経は太くない。
腕時計を見る。午後五時ちょうど。列車が停車して、一分と経っていなかった。
「川尻先生は、旅行はお好きですか?」
隣席からの声に、身を固くした。
「はい。でも、あまり旅をしたことはありません。高校の修学旅行が、最後でした」
「そのときは、どちらへ?」
「京都と奈良です」
「楽しかったですか?」
実際には電車の中で吐いてしまい、それがために「ゲロ尻」という救いようのないあだ名をつけられることになったのだが、
「はい。とても」
と答えた。
「それは結構。修学旅行はまさに、女子生徒のためにあるようなものです。男子は就職してからでも、あちこちに旅行することができるでしょうが、女子は結婚して家に入ると、なかなか外には出られませんからね」
わたしは背もたれから、身体を浮かせた。
「でもこれからは、女性も社会に出ていく時代なのではないでしょうか」
田所文夫校長が、意外なものを目にした、という顔になる。
わたしは、はっとして俯いた。
「すみません、生意気なことを言って」
「いやいや、たしかに川尻先生のおっしゃるとおりです。どうも私の世代は、考えが古くていけない」
田所校長が、両手で背広の襟を正しながら、含み笑いをした。
田所校長のベージュの背広には、格子縞が入っており、わたしの目から見ても高級品だった。ネクタイは朱色。学校ではもっと地味な色を締めているので、よそ行きなのだろう。わたしは、朱色のネクタイをしている男性を見たのは、初めてだった。
「これからは、あなたのように若くて、教育に情熱をもって取り組める人が必要になってきます。私としても、川尻先生には期待しているのですよ」
「わたしなど、学校を出たばかりの新米ですから」
わたしは、肩を縮めた。
「まあまあ、そんなに固くならないでください。ここは学校ではありません。ともに列車の旅を、楽しもうではありませんか」
田所校長が、笑みを浮かべたまま、わたしの肩に手を置く。肩から全身に、緊張の波紋が広がった。
田所校長は、丸顔に黒縁眼鏡をかけている。頭頂部は禿げあがっているが、頬には赤みがさし、肌も艶やかで、皺も少ない。斜め上に鋭く突き出た耳たぶが、見る者に一種奇妙な印象を与えるが、顔には柔らかな笑みを絶やさず、話をするのもうまく、なるほど紳士とはこういうものか、と思わせる品格があった。
今年五十歳というから、わたしの父と同じなのだが、厳格一方で無口な父に比べて、田所校長ははるかに現代的で、洗練されている。
しかし着任一年目のわたしにとって、田所校長は同時に、近寄りがたい存在でもあった。たしかに表情は柔らかだが、ときおり目の奥に、冷たい光を感じることがある。おそらくそれが、校長の校長たる所以、威厳というものだろうと、わたしは思っていた。
田所校長はいつも、職員室の奥にある校長室にこもり、頃合いを見計らったように、校内を歩いて回る。教室の窓から校長の姿が見えようものなら、胃が縮みあがってしまうほどだった。
その威厳ある田所校長と、二人きりで旅行をするのだ。緊張しないほうがおかしい。
今朝から食事が喉を通らず、列車に乗ってからは、下腹に締めつけられるような痛みまで感じ始めた。わたしは子供の時分から、極度の緊張に晒されると、お腹の調子が悪くなる質なのだ。
わたしは、気分を紛らすために、ふたたび車窓の向こうに目をやった。ホームを隔てたところに、蒸気機関車が停車していた。煙が出ておらず、出番まで待機しているところらしい。
運転士の声が聞こえた。
続いて排気音。
突きあげるような振動が一つ。ヂーゼル機関の唸りが大きくなる。くろがねの雄姿が、後ろに遠ざかっていく。
「どうしたのです?」
目を戻すと、田所校長の顔が、すぐ前にあった。仁丹の匂いが、鼻を突く。
わたしは思わず、身を引いた。
「いえ。なんでもありません」
田所校長がまた、含み笑いをする。
徐々に列車の速度があがり、やがて巡航速度に達したのか、音が静かになった。代わりに、線路の継ぎ目を乗り越えるときの振動が、規則正しく座席を震わせた。
国鉄別府駅に到着したときには、午後七時半を過ぎていた。とうに日も暮れている。
改札口を出ると、背広姿の男が近づいてきて、腰を深く折った。
「校長先生、長旅お疲れさまでございます」
さげた頭に、肌色の縦線が一本、走っていた。髪が真ん中から両側に、べったりと撫でつけられているのだ。
男が顔をあげた。
男の顔は小さくて、目が離れており、前歯が出ている。頭の中に、鼠、という漢字が浮かんだ。
田所校長が、男に手荷物を任せた。
「紹介しておきます。こちら、四月に当校に赴任されてきた川尻松子先生です。国立大出身の才媛でしてね。いまは二年生の副担任だが、来年から三年生のクラスを受け持つことになっている。川尻先生、こちら、修学旅行のお世話をしてもらう太陽トラベルの井出君です」
「川尻です」
わたしが会釈すると、井出と呼ばれた男が頭をさげた。
「井出と申します。どうぞ、荷物をお持ちします」
「いえ、わたくしは結構です」
わたしは、旅行鞄を胸に抱えた。
井出が、そうですか、と引きさがる。
「車を待たせてありますから、それで参りましょう」
車は、黒塗りのハイヤーだった。わたしは先に乗せられ、隣に田所校長が乗りこんでくる。井出は助手席に乗った。
すでに行き先を告げてあるらしく、井出が運転手に、やってください、と言うと、すぐに動きだした。
「井出君のところは不況知らずだろう。修学旅行なんて、旅行社にとっては旨味のある代物に違いないのだから」
井出が、身体をひねって振り向く。
「いやいや、うちも大変ですよ。先生方のおかげで、やっと立っているようなものですから」
「まさか経費節減のために、私たちの宿を格下げしたなんてことはないだろうね」
井出が、顔の前で手を振った。
「とんでもない。去年と同じお部屋をご用意させていただいております」
「それならよかった」
「あの」
わたしは口を開いた。
「修学旅行の下見というのは、どういうことをすればよいのでしょうか。教頭先生からは、とにかく校長先生のお供をするようにと言われただけなので」
「教頭の言うとおりですよ。私といっしょに来てくれればいいのです。下見といっても、毎年来ているわけですからね。まあ、骨休めのつもりで過ごしてください」
「きょうの宿も、実際に修学旅行で使うことになるのですね」
田所校長が口を開けた。が、言葉は出てこない。
「それはですね、きょうは別の宿をご用意させていただいております」
井出が、顔をわたしに向けて言った。
「それで下見になるのですか? 宿の安全面も確認しておかなくては」
井出が、助けを求めるような視線を、田所校長に向ける。
「それは心配ないでしょう。毎年使っている旅館ですから」
田所校長が、早口に言って、顔を背けた。
では下見そのものが不要ではないか、と感じたが、口にすることは思いとどまった。