東京23区内にある、416の地名のルーツを徹底解説した『東京23区の地名の由来』。葦(あし)が生えていたから「足立区」、古墳のある高い場所だから「竹の塚」、一日に千駄も薪を伐り出したということから「千駄木」など、その土地の歴史や地形の変遷が地名から見えてきます。この夏休み、本書を片手に身近な場所をお散歩してみては?
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千代田区
昭和二十二年、二区(神田・麴町)が合併して成立。旧両区にとってシンボル的存在である宮城(元・江戸城、千代田城)「千代田」が文字もやさしく、言葉の響きもよいので区名となった(千代田区史)。
1 外神田
度重なる大火で、神田の町々が当地に移転して来たことから、従来の神田地域に対して「外」であることから名付けられた俗称である(御府内備考)。現在、外神田一~六丁目まである。
2 佐久間町
佐久間平八という者が代々この地で材木問屋を営んでいたことに由来する。江戸城築城の時から建築用材を供給したという(東京案内)。神田川を利用して材木を販売した。現在、神田佐久間町一~四丁目まである。
3 駿河台
この町名の由来は、小川が高台から低地へと、すばやく流れ落ちていく、という意味である。儒学者の新井白石は、駿河台の由来について、次のように説明している。
「神田山へ家康死後、駿府にいた家来たちが集まって来たので、神田山を駿河台というようになった」
広辞苑(六版)も、この新井白石説を掲載している。しかし、家康が死んだのは、元和二年(一六一六年)。駿河台という地名は家康が死ぬ十年ぐらい前からあった(新撰神田誌・江戸名所図会)。従って、静岡県中東部の「駿河」とこの「駿河台」は直接関係ない。現在、神田駿河台一~四丁目まである。
4 神保町
神保は神田・神戸のような意で神社の所属地をいう。この地の町名由来としては、多くの辞典は「神保長治の人名説」を採用している。現在、神田神保町一~三丁目まである。
(類例)
(1)神奈川県厚木市下荻野神保
(2)千葉県船橋市神保町
(3)群馬県高崎市吉井町神保
(4)大阪府堺市堺区神保通り
5 岩本町
駿河台の高地から流れる神田川は、砂・小石まじりの須田村を過ぎ、さらに低いこの地の土手(柳原通り)は岩場が露出した。「岩場」から岩本町という名前が付けられた。現在、岩本町一~三丁目まである。
6 小川町
江戸城を築いた太田道灌の歌「むさし野の小川の清水たえずして岸の根岸をあらいこそすれ」の「小川の清水」に由来する(新撰東京名所図会)。古くは、鷹匠が住んでいたので元鷹匠町といい、元禄六年(一六九三年)に小川町と改称。現在、神田小川町一~三丁目まである。
7 多町
神田とは伊勢の大神宮に稲の初穂を奉納する「御田」があったから。多町は元は各地にある「田町」といったが、「多町」と改めたという(東京名所図会)。現在、神田多町二丁目だけである(一丁目は内神田に統合された)。
8 紺屋町
慶長年間(一五九六~一六一五年)に町ができた時、このあたりに染物屋が多く住みだしたことに由来するという(東京案内)。ちなみに、古典落語には「紺屋高尾」の話あり。吉原遊女・高尾を見染めた染物職人が身受け、夫婦となる。高尾の美貌と職人の努力で染物屋大成功! というものだ。現在、神田紺屋町は単独町名、丁目はなし。
9 鍛冶町
幕府の鍛治方があったことがその由来。慶長八年(一六〇三年)に、この町名ができる。文政七年(一八二四年)には、刃物や釘などの卸売業者がいた(江戸買物独案内)。戦後復興期には、家庭金物店、建築金物店などで、「神田金物通り」として、にぎわっていた。今でも、「金物通り」は金物屋がならんでいる。現在、鍛冶町一~二丁目まである。一丁目にはかつて今川橋があった。そこは「今川焼き」の発祥地という。
10 美土代町
町名の由来は次のように分解される。「美」は御に通じ、「土」はつち、「代」は田んぼという意で、たんぼを作ることを「代を掻く」という。これは、伊勢神宮に奉納する稲の初穂を作る田という意になる。つまり、神田美土代町というと意味のダブリ(重複)になる。「神田」も「美土代」も同じ意味である。明治二年まであった武家屋敷を同五年に整理し、「美土代」とした。現在、神田美土代町は丁目はなし。
11 飯田橋
由来は小高い丘の下の稲田をいう。その上に橋が架けられていたので、飯田村のその橋が町名となったものである。家康の関東入国の頃、住人飯田の喜兵衛に名主として飯田町と名乗るように命じたという(求凉雑記)。現在、飯田橋一~四丁目まである。
12 九段北・南
石垣を九段に築き、江戸城に勤務する役人の屋敷を作った、というのがその由来である。現在、靖国通りを境に九段北一~四丁目、九段南一~四丁目に分かれている。日本大学、東京理科大学、白百合学園などの学校や大村益次郎像などあり。
……続きは本書にて!