ほかに誰がいる? わたしの心をこんなにも強くしめつける存在が。憧れのひと、玲子への想いを貫くあまり、人生を少しずつ狂わせていく16歳のえり。恋が暴走し狂気に変わる衝撃の物語を、冒頭から抜粋してお届けします。ヤミツキ必至!大注目作家の話題作――
* * *
3
雪虫を見た。雪虫が飛ぶと、遠からぬうちに雪がふる。
見たのは昨日だったので、この雨は雪になるかもしれない。吐く息が白い。
わたしは下校途中だった。傘を持っていなかった。遠回りになるが、今日から駅への道順を変えることにする。
昨日、厭(いや)なことがあった。
男子高校生が、本屋の前のポストの脇に立っていた。本屋に寄って、ノートを買ってでてきたところで声をかけられた。
「本城(ほんじょう)さん」
とかれはいった。わたしの名前だ。「これ」といったかと思うといかがわしい雑誌を差しだしてくる。
「本城さんですよね」
ひらかれたページに、わたしの写真が載っていた。
写真のわたしは半袖(はんそで)短パンといういでたちでグラウンドに体育座りをしており、握ったグラウンドの砂を、指のあいだからこぼしていた。ゼッケンをつけていたから、体育大会のときだろう。わたしの目の焦点は合ってなく、唇が半びらきになっていた。
あのひとを見ていたのだろうと思われる。
ハイジャンプをするあのひとを、あのとき、わたしは頭を動かさないよう注意して見つめていた。頭を少しでも動かせば、あのひとのすがたがぶれて記憶される気がしたからだ。
「知ってました? 卑怯(ひきょう)なことするやつっていますよね」
勢いこんだ男子高校生の声が首すじに落ちてきた。
わたしは写真に見入っていた。写真の下にERIちゃん、と、書いてある。十六歳、高校一年。推定サイズも載っていた。実際よりも、ある部分は小さく、ある部分は大きく見積もられていた。少し、笑った。わたしは、わたしが知らぬ間に、どうやらさらし者になっていたらしい。それも厭だが、もっと厭だったのは、この写真を、わたしが知らぬ間に撮られていたということだった。こちらの落ち度のような気がしてならない。
「許せないですよね」
声が近くなった。茹(ゆ)でた栗(くり)のようなにおいがする。
わたしは手をのばし、自分の写真に指をおいた。半びらきになった唇付近だ。紙なのに、なまぬるかった。汚らしいものに触れた気がして、すぐに離した。汚らしいのは、わたしのほうかもしれない。わたしは、こんな表情であのひとを見ていたのだ。
目を上げると、男子高校生の顔が思ったより近くにあった。かれは自己紹介をしてきたが、わたしはきびすを返し、早足で駅に向かった。家に帰りたかった。部屋で、ノートをひろげたかった。
わたしは、どうしたらあのひとともっと親しくなれるかを考えていた。
あれこれ作戦を練った時期もあったが、いまのわたしは、偶然を信じる気持ちになっている。
あのひととの出会いが偶然であった以上、わたしたちは、わたしが思っているよりずっと偶然に支配されているのではないか。遅かれ早かれいつかはきっと親しくなれるのではないか。作戦を企てるのはむなしいのではないか。そう思い始めていた。
この新しい考えは、ある朝目がさめたときに思いついたもので、反芻(はんすう)するうちに疑いようのない真実としてわたしのなかに定着した。
目をつぶって辞書をひらき、そのページのどこかを指差してみる。
それが「かけがえ」だったりすると、励ましを与えられたと感じる。わたしは厳粛な心持ちになり、とても大きな存在に感謝したくなる。
このごろでは、一歩すすんで、念を送ることに力を入れていた。
わたしは偶然を引き寄せたかった。強く願えば叶(かな)うと思う。
賀集玲子、賀集玲子と、あのひとの名前をノートに書きつらねた。わたしとあのひとが仲よく語り合っている場面を想像しながら、ノートをくろぐろと埋めていく、この作業。
賀集玲子という名前は確かにあのひとの名前なのだが、わたしのなかであのひととうまく結びつかなかった。わたしは、わたしだけのあのひとの愛称がほしいと思った。
しかし、それはまだ早いとも思うのだった。急いではいけない。
そこで、わたしは、単に「あのひと」と書くことにした。あくまでも仮に。
「あのひと」という呼び方が、いまのわたしたちにはふさわしいと思う。いまは、まだ、賀集玲子はわたしから遠いところにいる。わたしは立場をわきまえる。だから、「あのひと」と書くことにするのだ。
一日に百回書くことをノルマにした。書いていると夢中になった。雑念が入ってはいけないので、集中力がいる。
ノートのページがまるごと「あのひと」で埋まる。一枚では足りなかった。百回のノルマなんて、らくにクリアできる。ノルマをクリアしたそのあと何回書けるかのほうが重要だ。
右の手首が痛くなった。わたしは筆圧が高いらしい。
雨がみぞれに変わってきた。昨日、雪虫を見たからだ。
溶けかけた氷がふりかかり、わたしの髪に房をつける。ゆるくまとまった毛束から、紙石けんのにおいがした。
かばんを頭にのせようと、かばんの持ち手をひじから手首にすべらせたら、みぞれがやんだ。と同時に目の前が赤く翳(かげ)った。後方から傘をさしかけられていた。赤い傘だった。
「寒くない?」
わたしは傘の持ち主をまだ確認していなかったし、その声にも聞き覚えがなかった。でも、その声はあのひとのものだとすぐにわかった。
この声はあのひとの声でなくてはならなかった。想像を控えていたわたしの判断は正しかった。細く、高めで、わずかに鼻にかかり、語尾に余韻を残す声。これが、あのひとの声。びろうどのようだ。
「寒かった」
ゆっくりと見返って、わたしは笑った。あのひとのほうが背が高いので、顎(あご)が心持ち上がった。息もあがった。
「赤いよ、鼻」
あのひとが視線をいくぶん落とし、自分の親切に照れて笑っている。
「本城さん、だよね」
鼻の頭に指をやって、あのひとがわたしの名前を口にした。声量をおさえ、こっそりといった。びろうどの手触り。
「えりでいいよ」
賀集さんだよね。
早口で、一気にいった。鼻をおさえていたので、くぐもった声になった。
「え?」
と、あのひとがからだを傾けて、耳をわたしの口元に近づけてくる。
「賀集さんだよね」
会話としては大きな声で、もう一度、いった。息がはずんだ。ああ、と、あのひとはひとつうなずき、「れいこでいいよ」と笑ってから、
「ね、えり」
といった。わたしのひじをつつき、また、笑った。
わたしたちは駅まで歩き、電車に乗って、六つ先の駅で降りて、お互いのバスがくるまでマクドナルドで温かいものをのんだ。
みぞれが雪に変わったが、そんなことはどうでもよかった。明日も一緒に帰ろうかとあのひとがいったが、そんなことはわかりきったことだった。
今日、わたしは確信した。
わたしたちはもっと親しくなるように定められている。
あのひとは、えりとはすごく気が合うみたいといっていたが、あのひとがこの定めに気づいていないのが不思議だった。
わたしは、あのひとの愛称を「びろうど」にしようと思う。できれば漢字のほうがいい。帰ってただちに辞書をひかなくては、と、あのひとと向かい合っているというのに、気がはやった。
「ほら、また、放心してる」
あのひとがわたしを指差し、愉快そうに何度も笑った。その、笑い声。びろうどの感触。手で触れて気持ちのよいものは、頬擦(ほおず)りして確かめたくなる。もっと気持ちよくなりたくなる。
びろうどという字は、すごく画数が多いのではなかったかな。ノートには書きづらくなるけれど、それがわたしだけのあのひとの愛称なのだから仕方ない。
「ほら、また」
あのひとが楽しそうに笑っている。よいにおいがして、わたしは鼻から息を吸った。
ほかに誰がいる
女友達への愛が暴走し狂気に変わる……衝撃のサスペンス
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