日本人で唯一「YouTube週間チャート世界第1位」を獲得、さらに日本人として26年ぶりにビルボードチャートインした「ピコ太郎」。その再生回数は、なんと累計4億4千万回! 一世を風靡したこのエンターテイナーは、どのようにして生まれたのか? そしてどのようにして一大ブームを巻き起こしたのか? ピコ太郎の「プロデューサー」である芸人、古坂大魔王の著書『ピコ太郎のつくりかた』から、その秘密を探ります。
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ヒットの裏に歴史あり
いろんな偉い教授が「PPAP」のヒット要因を分析した論文を書いてくれている。うちの弟も教授だから、その論文を見せてくれるのだ。
それらには必ず「時期がよかった」とか、「1分の動画だったのがよかった」とか「ジャスティン・ビーバーのツイッターがすごかった」とか分析しているのだが、どの論文を見てもやっぱり「愛」がない。
愛を表現している人っていない。
だからもし僕が自分で論文を書くならば、一番上には「愛」が来ると思っている。この愛こそがすごく大事。
アインシュタインの相対性理論を織り交ぜて描いたといわれる「インターステラー」という映画があるけれど、時空などのすべてを超えるものに愛があるっていうメッセージがすごく好き。
まさに愛こそ無敵。愛があれば戦争も起きないし、愛があれば平和になるし、愛があれば金も稼げると思ったわけだ。
ピコ太郎はもうまんま外国人どころか宇宙人なので大丈夫なんだけれど、僕は海外に行くと面食らう。
でも愛があれば大丈夫。なにごともバカにせずに、愛を持っていれば、みんなOK。とにかく愛は不思議というか、これがすごく大事だと思っている。
僕がピコ太郎の動画を作るまでには、長年にわたる紆余曲折がある。古坂大魔王名義で作った古い動画を見てもらうとわかるが、ピコ太郎の原型となる動きやリズムが随所にうかがえるはずだ。
僕は、音楽とお笑いの融合をずっと前からやりたくて、17年ぐらい前にテクノ体操というコントをやった。
このテクノ体操の音源がまさに「PPAP」だ。
これをNHKの番組でやったら、600点満点の150点くらいで最下位になった。
唯一、立川談志師匠だけが気に入ってくれて談志賞をもらったんだけれど。
そして、5年くらい前に、このテクノ体操をバックトラックにして、ピコ太郎に歌ってもらおうと思った。
ヒットするコンテンツには膨大な歴史がある。PPAPは1カ月くらいで作ったが、本当のことを言えば、芸歴25年の長い時を経てこの世に誕生したのだ。
ピコ太郎は「愛」から生まれた
この間、僕にはラジオやテレビのレギュラーや営業、音楽ユニットなどさまざまな仕事があった。
そこでの愛のやり取りがピコ太郎につながった。
昔から応援してくれているファン、家族、スタッフ、最初のインフルエンサーになってくれた後輩たち、若手のアーティスト、お笑いの仲間、こうしたいろいろな人たちに、愛情をもって接したおかげで、きちんと愛情で返してくれたんだと思う。
だって1円も払っていないのに、みんな協力してくれた。
これはきっと全部、愛だと思う。こちらも愛すれば、愛で返してくれる。愛とは違う言葉で表現すると、尊敬であり、謙遜であり、認知かな。認め合うとそこには愛が生まれてくるんだなというふうに思った。
昔から僕を知っている人は「お前はよく途中で放り出さずにやってきたよな」と口々に言う。
でもそれは、周りの人たちの支えと期待があったからだ。青臭いことを言うが、プロとして仕事をするための燃料は人々の愛であり、「ありがとう」という感謝なのだと思う。
誰かから愛情を受けたと感じたときには、相手にもキャッチボールのように愛情を投げ返さなければならない。
そうしなければ、キャッチボールは途切れてしまう。もらったら返す。もらったら返す。この愛情のキャッチボールを、人は永久に続けなければならない。
ヒットを作るための最大の方法は愛を集めることだ。
心の奥底にいつも、周りの人へのサービス精神と愛を保ちながら仕事にこだわれば、誰かがきっと支えてくれる。あきらめそうになったとき自分をサポートしてくれる。
たとえば爆笑問題の太田さんは、何でもかんでも言っちゃう人だけれど、そんな彼に「お前ピコ太郎の活動が忙しいだろ」と言われたことがあって。「いや、あれ別人だからね」って返したら「めんどくさいなぁ」と言いながら聞いていた。その数日後、ラジオ番組で、相方の田中さんが、「そういえばピコ太郎は今すごいねー、古坂大変だと思うよ」と言ったら、「お前バカじゃないの。あれは別人に決まってるだろう」と言ってくれたのだ。
この瞬間に、インターネットで、「あの毒舌の太田が言えないってことは、相当なタブーなんだ」という話が広がった。
ピコ太郎は、まさに愛から生まれたのだと思っている。