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月が綺麗ですね 綾の倫敦日記

2019.07.17 公開 ポスト

新連載

息苦しかった東京を捨てて新しい人生を始める鈴木綾

30歳直前に東京からロンドンにやってきた。日本人ではない。イギリス人でもない。でもここから新しい人生を始める。最初はそんな自分の話から。

(写真:鈴木綾)

20代は自分の大人としての人生の基盤ができる時期だ、と叔父に言われたことがある。

大人の友達を作る、社会人としてキャリアを始める、結婚相手に出会う。昔の世代と違って、私の世代は20代の間にそういった目標を全て達成するわけではないけれど、私は20代にずっと東京に住んで素晴らしい社会人人生の基盤ができていた。

でも、30歳になる直前の私はそれを全て捨ててしまった。

日本の友達、仕事と離れて、寄り道をしながらロンドンに辿り着いた。

仕事が変わった。今はもう日本語じゃなくて、英語だ。LINEじゃなくて、Whatsappだ。住んでいるマンションにバスタブはない。公園が前と比べると増えたけど、汚染も増えた。近所がインド料理屋さんだらけ。ロンドンの多様な人混みの中で私の顔は目立たない。

特にロンドンが好きだったからこの街に引っ越したわけではない。

大昔、また学生だった20歳の時に一度ロンドンに来たことがあった。当時住んでいたアパートの大家のおばさんにノッティングヒルのレシピ本専門店を勧められたので空港から直接そこに向かった。大量なレシピ本に食欲を刺激されたのでレストランかカフェを探した。唯一、学生の私の手が届きそうなお店は寿司屋さんだった。

お店に入ってカウンター席に座ってランチセットを頼んだ。「次どうしようかな」とぼんやり考えていたら、背の高い美人がお店に駆け込んできた。毛皮のショートコートに革のレギンスを履いていた。昼間からそんなカッコを着ている人を見るのは初めてだった。さすがノッティングヒルだーと思った。

「アレキサンダー・マックイーンが亡くなった!」
とその美人のお客さんがアジア人のウェイトレスに泣き叫んで話しかけた。

 

アレキサンダー・マックイーンは有名なファッションデザイナー。私は名前を聞いたことがあったけど、詳しいことは知らなかった。

英語が苦手そうなそのウエイトレスは少し困惑したような表情を見せたけれど、悲しみで取り乱した女性を近くの席に座らせて、「いつものものでいいですか」と優しく聞いた。美人のお客さんが頷いて、アレキサンダー・マックイーンのどうのこうのをウェイトレスに喋り続けた。

有名なファション・デザイナーが死んだことで近所の行きつけのお店に行って店員に泣くなんて、私は絶対にしない。最低賃金もらって安いお寿司屋さんでバイトしているウェイトレスはアレキサンダー・マックイーンを知っているはずがないし、一生お金貯め込んだとしてもアレキサンダー・マックイーンの洋服に手が届かないと思う。だけどロンドンではそれが普通だったかもしれない。

お寿司屋さんを出て、もう少し街を歩いたら高級古着屋さんがあった。
すでにショーウィンドウに看板が出ていた。

「RIP Alexander McQueen」

ロンドンでは友だちの友だちに泊めてもらった。同い年のアルメニア人の画家だった。泊めてもらっていた3日の間、大麻を吸ったりネスカフェを飲んだり大麻を買うためにアルメニア語しか通じなかったホームパーティに行ったりした。

パーティの帰り道でラリっていた二人が二階建てバスの二階の一番前の席に座ってまちを眺めた記憶がある。雨が止んだ直後のまちの風景がバスの巨大な窓からぼやけて見えた。街を歩いている人の顔もぼやけて見えた。水たまりに反射した信号の色がぼやけて見えた。友だちが通過していく場所を解説してくれていたけど、酩酊状態になっていた私の頭の中は何も入ってこなかった。自殺したアレキサンダー・マックイーンはかわいそうだなーとぼーっと思った。

ロンドンに行って頭に残ったのは彼の名前だけだった。

だから今回ロンドンに来た理由は特にない。日本を離れたかったから。それだけだった。

日本という国がとても好きだったし、今も好きだけど、日本で過ごすうちにだんだん女性として生きづらくなった。私はとても大きな野望を持っていた。アレキサンダー・マックイーンのような、自分の分野で世界のトップレベルになることを目指すような人たちは残念ながら日本にほぼ残らない。世界のトップ人材と一緒に仕事をしたい人たちはロンドンやニューヨークに行く。

私は知らない街に来た。覚悟はしていたけれど、私は孤独。この街で私は何者でもない。友だちも仕事も、社会人人生の基盤全てを日本に捨ててきた。捨ててきてしまったから、私は、この街で一から自分の基盤を作り直さなければならない。

ふと、昔読んだ夏目漱石の本のことを思い出した。彼はイギリスに来た時と同じような気持ちなんじゃないかな、と思う。彼もとても孤独感を感じてイギリス生活に慣れなかった。

私が大好きな、夏目漱石の都市伝説がある。夏目漱石が、英語教師をしていた時、学生に「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳させた、という話。

ここで恋をして、好きな男性に「月が綺麗ですね」と言っても百パーセントの確率で通じないだろう。なんで「月が綺麗ですね」が素晴らしい言葉なのか、私がこちらで知り合う人達にはわかりようがない。その言葉に込められた秘めた恋心、私の心の全てをわかりようがない。 

でも、私はここで新しい友達を作る。仲良くなった彼らは私に別の素晴らしい言葉、別の素晴らしい表現を教えてくれるだろう。彼らなりの月の意味も教えてくれるだろう。彼らからすると「月が綺麗ですね」というのは「死にたい」を意味するかもしれないし、単に「月が綺麗」というだけの意味でしかないかもしれない。

そして、私は彼らに夏目漱石の表現を教える。「月が綺麗」がどんなに素晴らしい言葉か、そんな言葉を生み出すことのできる日本、私が好きな日本のことを伝える。 

今住んでいるロンドン、そしてそこに生きる様々な人たち。その人たちといろんなことを語り合い、分かち合うことで、きっと私の人生も彼らの人生も豊かになる。 

新しい私の人生が、ここから始まる。 

*   *   *

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月が綺麗ですね 綾の倫敦日記

イギリスに住む30代女性が向き合う社会の矛盾と現実。そして幸福について。

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鈴木綾

1988年生まれ。6年間東京で外資企業に勤務し、MBAを取得。ロンドンの投資会社勤務を経て、現在はロンドンのスタートアップ企業に勤務。2017〜2018年までハフポスト・ジャパンに「これでいいの20代」を連載。日常生活の中で感じている幸せ、悩みや違和感について日々エッセイを執筆。日本語で書いているけど、日本人ではない。

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