虎之助は旗本、有馬家の次期当主。ところが屋敷を一歩出れば、着流しを大きくはだけて目つきは鋭く、「若親分!」と方々から声が飛ぶ。じつはこの虎之助、侠客の大親分を祖父に持つ根っからのやくざだった……。風野真知雄の痛快時代小説シリーズ、『大名やくざ』。次々と舞い込む難題に、稀代の暴れん坊はどう対峙するのか? 読めば江戸にタイムスリップしてしまう、臨場感たっぷりの本書の第一話をご紹介します。
* * *
人混みである。参拝客、勤め帰りの武士、托鉢の僧、晩のおかずの買い物客、なにしに来たのか自分でもわからない通行人などでごった返している。いっきには近づけない。
かきわけて進む途中で目が合った。男はすばやく目を逸らした。
──おれを知ってるのだ。
それで慌てて目を逸らすのはますます怪しい。
男は振り向いて、誰かになにか言った。
そいつの顔がちらりと見えた。左目のところが金ピカだった。
一目でわかる。
「独眼竜の常じゃねえか」
浅草一帯を縄張りにするやくざである。
昔、喧嘩で片目を失った。そこに銅銭を紐でくくってあてがうのはよくやることだが、こいつは小判に穴を開け、失った目の上にあてている。
いかにもやくざのやることである。金ピカ大好き。
だが、浅草の独眼竜がなんでこんなところをうろうろしているのか。
──そういえば……。
この半月、子分たちから話が入っていた。浅草の連中がちょろちょろしていると。しかも、町を歩くだけならまだしも、高輪の泉岳寺にまで来ていたらしい。
浅草寺とつるんでいるやくざが、なんで泉岳寺に来なければならないのか。
これはとっ捕まえて白状させなければならない。
二人は虎之助を見ると、急いで逃げ出した。
追いかけるが、人にぶつかる。見世物小屋があって、このところ〈ヘビと夫婦になった女〉という演し物が当たっている。そこの行列だった。
「おい、待て!」
叫んだが、もちろん待つわけがない。
人をはね飛ばしながら進んだ。
裏道が入り組んでいる。迷宮のような町。通路だというのに、漬け物の樽だの、七輪だのがところ狭しと置いてある。歩きにくいこと、この上ない。
「どけ、どけ!」
大声を上げながら進むが、方々から声もかかる。
「若親分!」
「よっ、日本一!」
なにが日本一なのだか。
「ありがとよ」
適当な返事でごまかし、虎之助は独眼竜を追う。
角を曲がった。
「おっと」
男に突き当たった。わざと立ちはだかったみたいでもある。
ムッとして顔を見る。
月代を剃らない総髪に、前髪を幾筋か垂らした独特の髪型。頬には大きな稲妻のような傷。凄みのにじみ出た顔である。
「なんだ、兄貴か」
丑蔵一家では兄貴分の、弥次郎だった。頬の傷から〈稲妻弥次郎〉が通り名になっている。
さっき、「丑蔵の跡目を継ぐ男」と言っていたのが、この男だった。
「どうした、虎之助?」
弥次郎は凄みのある笑みを浮かべて訊いた。
「浅草の独眼竜がいたんだ」
「品川の女郎屋にでも来ていたんじゃねえのか。吉原で遊ぶ金がなくて」
弥次郎は、冗談めかして言った。
「だが、おじいのところに挨拶があってもよさそうだ。しかも、おれの顔を見て、逃げるというのも怪しいぜ」
「そりゃあ、噛みつきそうになってる虎之助を見たら、誰だって逃げたくなるさ」
弥次郎の落ち着いたようすが、虎之助にはいささかじれったい。
「兄貴、聞いてないか。独眼竜の手下が泉岳寺にも来ていたって話は」
「ああ、聞いてるよ」
「あいつ、なにか狙っているんだ。ちっとおじいに言って人手を借りる」
「どうすんだ?」
「芝から出させねえのさ」
虎之助は表通りに向かって駆け出した。
表通りというのは、東海道である。海も近く、かすかに潮の香りも漂う。寝静まったころには波音もする。
芝浜松町二丁目。
丑蔵の駕籠屋は、間口十間(およそ十八メートル)ほどの構え。
店先には、予約の入っている駕籠が七つ、八つほど横に並べられている。
そこへ虎之助は勢いよく飛び込んだ。
「おじい。若い衆を貸してくれ」
「どうした?」
肩幅がふつうの人の二倍ほどもある、よく肥えた年寄りがこっちを見た。
渋み漂う、目の大きさが目立つ顔。
火事の丑蔵である。
「浅草の独眼竜がここらに来てる。おれの顔を見たらこそこそ逃げたり、どうも怪しい。とっ捕まえるから、若い衆を貸してくれ」
「なるほど、独眼竜がな」
二度三度うなずいた。丑蔵も思うところがあったらしい。
「どうしたんだ、おじい?」
「いや、とりあえず捕まえてからにしよう」
丑蔵はそう言って、二階の若い衆に声をかけた。
と、そのとき。
半鐘が鳴り出した。火事を告げている。
「どこだ?」
丑蔵が虎之助に訊いた。
「見てみる」
虎之助はすばやく店のわきにある火の見やぐらによじ登った。
四方を見回したが、煙は見えていない。増上寺一帯が高台になっているので、西のほうは見通しが悪い。
こういうときは、半鐘の鳴り方で見当をつける。北より南の叩き方が速い。
「増上寺の向こうっ方、新堀河岸の近くみたいだ」
と、下にいる丑蔵に叫んだ。
増上寺の南側を流れるのが新堀川。渋谷川とか金杉川とも呼ばれ、渋谷のほうから流れてきて、ここ芝で海に入る。
新堀河岸は、赤羽橋が架かる手前あたりの河岸の名で、周囲は火除け地になっている。
「有馬さまのお膝元じゃねえか。しらばっくれるわけにはいかねえ。虎。独眼竜の野郎は、今日のところは見逃せ。次に見つけたときだ」
「ああ、しょうがねえや」
虎之助も納得した。
六
出がけに丑蔵から、
「虎、おれが着くまでおめえが指図してくれ」
と、頼まれた。
丑蔵はこの数年めっきり肥って、速く走れない。すぐ息が上がる。もたもたしていたら、ここから新堀河岸まで駆けつけるうちに火が広がってしまうかもしれない。
「がってんだ」
火消し半纏をはおり、まといをかつぎ、虎之助は駆けた。二階にいた若い衆が八人、後ろから火消しの道具を乗せた荷車を押して来る。
さらに半鐘を聞いた若い衆も、あとから駆けつけてくるはずである。
「どけ、どけぃ!」
新堀川沿いの道を駆け、火事の現場に来た。野次馬や、家財道具を運び出す人たちでごった返している。
通りから奥に入ったあたりで炎が上がっていた。
芝神明町から見ると、ちょうど増上寺と子院が並ぶ真裏に当たるところである。赤羽橋のたもとで、大名屋敷に囲まれたなかで、一町から二町(およそ百九~二百十八メートル)四方ほどの町人地。
ごちゃごちゃした一画で、人足やかつぎ屋などが多く住んでいる。荒っぽいところで、喧嘩沙汰も絶えない。
「ほらほら。丑蔵一家のお出ましだぜ!」
人をかき分けて進んだ。
火消しはほとんど来ていない。町内の連中が、めいめい自分の家に手桶で水をかけているありさまだった。
「大名屋敷からの人出はないのか?」
虎之助は、近くにいた男に訊いた。
「ないみたいです」
「ちっ」
と、舌打ちした。
ここは薩摩藩の中屋敷と、虎之助の家の主筋である久留米藩有馬家の上屋敷に取り囲まれている。とくに久留米藩は正門が真ん前にある。
自分のところへの類焼を避けるためにも、近所の火事には大名家が抱えている火消しを出してくれるのがふつうである。
しかも有馬家は、加賀藩や赤穂藩などと並んで、火消しに熱心なことで知られたのだ。
虎之助は火元にやって来た。近くの家に梯子をかけて屋根に上ると、ざっと状況を確かめた。
風は南から吹いている。
新堀川の近くは、馬場になっていたり、川岸も幅があったりするので、よほどのことがない限り、増上寺まで飛び火する心配はない。それでも広がれば、この周囲の半分は焼けてしまうだろう。
「よし。ここで食い止めるぞ。水をかけろ!」
まずは自分が頭から水を一杯かぶり、火の粉を浴びながら叫んだ。
新堀川の水は消火に使える。
ただ、水で消せるのはそう多くない。
類焼を防ぐためには、燃えそうな家をつぶし、さら地にしてしまう。
それをどこで線引きするか、見極めが難しい。火の勢い、風の向き、風力などから、落ち着いて判断しなければならない。
「そっちはつぶせ」
自分が立っている前の家を指差した。
虎之助の命令で、若い衆が鳶口や斧などで、家を壊し始める。安普請だから、たちまち壊れ、柱や板がどんどん運ばれていく。
「火元はそっちの稲荷の祠じゃねえか?」
隣に来ていた若い衆に言った。
盛んに燃えている家の向こうが十坪ほどの神社の境内になっていて、そこの祠はすでに焼け落ちていた。
「お灯明ですかね」
「祭りでもねえのにそんなもの灯すもんか」
「てことは?」
「付け火だな」
火の粉が飛んできて熱い。
この家にも水をかけているので、そのうちの一杯を頭からかぶった。
有馬屋敷の長屋門がすぐそこに見えた。だが、門戸は閉じられたままである。
「有馬屋敷は冷てえもんだな」
と、すぐ下にいた町内の者に言った。
「有馬さまはここんとこどうもたるんでいなさるんで」
「そうなのか」
「赤穂藩の浅野さまがあんなことになったし、これで有馬さまが頼りにならないとなったら、ここらも火事になると心配ですよ」
「なんでたるんでるんだ?」
「なんだか殿さまが危ないとかいう噂なんです」
「殿さまがな」
義父の則故は聞いているのかもしれないが、ふだん滅多に話もしない。だいいち、主筋の大名家の内幕など、虎之助にとってはどうでもいいことである。
大名やくざ
虎之助は旗本、有馬家の次期当主。ところが屋敷を一歩出れば、着流しを大きくはだけて目つきは鋭く、「若親分!」と方々から声が飛ぶ。じつはこの虎之助、侠客の大親分を祖父に持つ根っからのやくざだった……。風野真知雄の痛快時代小説シリーズ、『大名やくざ』。次々と舞い込む難題に、稀代の暴れん坊はどう対峙するのか? 読めば江戸にタイムスリップしてしまう、臨場感たっぷりの本書の第一話をご紹介します。