虎之助は旗本、有馬家の次期当主。ところが屋敷を一歩出れば、着流しを大きくはだけて目つきは鋭く、「若親分!」と方々から声が飛ぶ。じつはこの虎之助、侠客の大親分を祖父に持つ根っからのやくざだった……。風野真知雄の痛快時代小説シリーズ、『大名やくざ』。次々と舞い込む難題に、稀代の暴れん坊はどう対峙するのか? 読めば江戸にタイムスリップしてしまう、臨場感たっぷりの本書の第一話をご紹介します。
* * *
ふと見ると、風向きが変わったのか、火のついた紙屑などが塀を越え、有馬屋敷に飛び込んで行くのが見えた。
「おい、危ねえな。ちっと気をつけろと言ってきてやるか」
虎之助は梯子を借りると有馬屋敷の塀にかけ、たちまち塀の屋根によじ登った。
旗本屋敷などとは比べものにならない豪壮な屋敷と、きれいに整えられた庭が見えた。とにかく広い、大きい。
いちおう火消しらしい連中もいるが、どうやら煙が流れているほうに集まって、水をかけたりしているらしい。こっちにはほとんど人けがなくなっている。
虎之助は屋根のわきの松の木をつたって地面に降りると、火の粉のようすを見ながら庭を横切った。
ふと、庭に面した部屋に誰かが寝ているのが見えた。
──病人がいるのか。
火が移って逃げ遅れたりしたらいけない。ひとこと注意を促してやろうと、
「火消しの者だが、ここまで火の粉が来てるんじゃねえですかい?」
と、声をかけた。
寝ていた人がなにか言ったが聞こえない。
「なんですって?」
近づき、縁石から廊下に上がった。
寝ているのは若い男だった。一瞬、
──これが、死にそうだという殿さまか?
と思ったが、殿さまにしては若過ぎる。
若い男は、驚いた目で虎之助を見ている。
「具合が悪いんですね。飛び火するようなら早めに逃げたほうがいいんだが、ここの屋敷の人たちは皆、向こうに行っちゃってるみてえだ」
虎之助は振り返って、火の粉の飛び具合を確かめた。
だいぶ火勢は衰えたらしく、ここまで飛んで来るような大きな火の粉はなくなっていた。
「なんとかおさまるかな」
そう言ったとき、
「なんだ、そのほうは!」
向こうで声がして、何人かの武士がこっちへ慌てて駆けて来るところだった。
「おっと、間抜けな連中の相手してる暇はねえんだ。じゃあな、お若いの」
虎之助は寝ていた男にそう言うと、いっきに庭を横切り、松の木から塀の屋根、さらに外へと逃げ出した。
さっきいたところにもどると、すでに火はだいぶ小さくなっているのが見えた。
火消し連中も集中して水をかけているので、これでおさまりそうだった。
いまのところ、全焼は稲荷神社の祠と家が二軒。
取り壊したのが三軒。
──我ながらいい指図だったぜ。
虎之助も満足した。
一息ついたところだった。丑蔵のところの若い者がやって来て、
「虎之助さん。あっしが来るとき、店の近くで独眼竜を見かけましたぜ」
と、告げた。
「なんだと」
まだ逃げていなかったのか。
──ほんとに、なにしに来てやがるんだ?
不気味な動きである。
「そういえば、おじいはどうしてる?」
ふと不安になって、若い者に訊いた。
「こっちに向かったはずですが」
「まだ来てねえぞ」
浜松町二丁目からここらまでは半里(およそ二キロ)もない。せいぜい十二、三町(およそ一・三~一・四キロ)といったところ。いくら肥り過ぎの年寄りにしてもずいぶん遅い。
嫌な予感がしてきた。
──もしかしたら、この付け火でおじいをおびき寄せたのではないか。
「ぶんき、わりいな」
「え?」
「ねむが騒ぐんだよ」
ここの指図を代わってもらうため、弥次郎を捜した。
弥次郎はいちばん前で水をかけていた。
「兄貴。おじいのことが心配になった。ちっと見て来る」
「おい、虎。火事は消えちゃいねえぜ」
「でも、だいぶ下火になっているし」
「最後の仕事もあるだろうが」
そうなのだ。
棟梁役を務めたら、消えたあとも仕事がある。丑蔵一家の働きを町方などに売り込まなければならない。
褒美はもちろんだが、それで各方面に貸しをつくっておくのだ。
「おれが見て来るよ」
弥次郎が行こうとしたとき、
「虎之助さん。たいへんです!」
別の若い者が駆け込んで来た。
「おい、まさか」
「丑蔵親分が斬られました!」
七
「おじい、しっかりしろ!」
虎之助は浜松町二丁目の駕籠屋に駆け込んだ。
丑蔵は一階の奥の部屋に寝かされ、医者と虎之助の母の辰が晒しを巻いているところだった。
医者はなじみの金創医で、若い衆の斬った張ったがあると、かならず呼んで来る医者だった。
丑蔵は背と腹を斬られたらしい。傷はもう縫いつけたあとだったが、晒しに滲む血のあとから察するに、かなり深手だったようである。
「誰かおじいといっしょにいたのか?」
虎之助が訊いた。
「あっしと舟次が」
丑蔵を支えるのを手伝っていた若い衆の与平が言った。
すこし離れてもう一人寝かされているのは、昼間見かけた漁師の倅の舟次だった。
「独眼竜か?」
「いえ、侍です」
「侍?」
「三人で駆けつける途中、侍がいきなり斬りかかってきたんです。火消しの道具を持っていて戦ったんですが、あっという間に親分と舟次も斬られて。あっしは後を追おうとしたんですが、親分が心配で」
「ああ、それでよかったんだ」
虎之助はそう言って、次に舟次の枕元に座った。
舟次は丑蔵より真っ白い顔になっていた。
だが、目は開けている。それでもはっきりは見えていないような、不安げな目つきだった。
「舟次、わかるか?」
「虎之助さん?」
「ああ、おれだ。しっかりしろよ」
「すみませんでした」
泣きそうな顔になった。
「おめえのせいじゃねえ」
「足洗えとか言わないでくださいよ」
「ああ、わかったよ」
「おれはやくざなんだから」
誇らしげに言うと、首が落ちた。
こいつは幾つだったのだろう。まだ二十歳にもなっていなかったのではないか。
「舟次……仇は討ってやるからな」
医者がとりあえず手当てを終えたところに、火事の後始末を終えた弥次郎たちももどって来た。
「親分……」
皆、愕然として、丑蔵を囲んだ。
医者が桶の水で手を洗いながら、
「肉がたっぷりあるおかげで内臓までは届いていなかった」
周りを見回して言った。
「ふう」
若い衆からため息が洩れた。
「でも、太い血の道や筋をやられ、ずいぶん血が出た。助かるかどうかはわからない」
「そんな」
動揺が走った。
「おじい、しっかりしろ!」
虎之助が怒鳴った。
丑蔵がうっすらと目を開けた。
「おじい……」
「おれがどうにかなったら、跡目を継ぐのは弥次郎だ」
「え」
「わかってんだろうな」
弥次郎が意外そうな顔をしたのを見た。
「わかってるよ、おじい」
虎之助はうなずいた。
それは前から言われてきたことだった。
侠客というのは、倅に代をゆずるということはしない。強い者にゆずる。それをしないと、子分たちは離れていくことになる。
「武士が腐ってきたのも、力のない倅に家督をゆずりつづけているからだ」
丑蔵はつねづねそうも言っていた。
虎之助も滅法強い。子分にも慕われている。だが、血縁ではない弥次郎を跡目としたのは、丑蔵の気質からしても当然だろう。
ただ、弥次郎が意外そうな顔をしたことは気になった。
八
「ちっと出かけて来る」
虎之助が立ち上がると、
「どこへ行く気だい?」
辰が鋭い声で訊いた。
辰は、沈んだ部屋には似つかわしくない派手な着物を着ている。赤や黄色の蝶々の柄。それに金糸の入った緞子の帯を前で結んでいる。虎之助同様に堅気の女には見えない。
「虎之助さん。仕返しならあっしも」
「おいらも」
たちまち七、八人がドスを掴んで立ち上がった。
「待て、待て。安心しろ。おれはそんな頭の悪い猪みたいな真似はしねえ。ちっと知り合いに訊きてえことがあるだけだ」
虎之助は若い衆をなだめた。
「すぐもどるよ」
そう言って外に出ると、足早に江戸の中心部に向かった。
通りの店の間口はどんどん広くなる。
天下の日本橋を渡って、本小田原町。
ここに日本橋から神田、京橋一帯を縄張りにする大物やくざがいるのだ。
〈鎌倉の万五郎〉である。
綽名の通り、鎌倉から江戸に来た。家康が江戸に入ったとき、荒くれ者の人夫たちを鎮める役として、鎌倉の魚屋の棟梁を招いたという。
「お墨付きもある」
というが、誰も見た者はいない。
だが、いまや押しも押されもせぬ江戸の大親分である。子分の数で言えば、丑蔵の三倍はいる。
ただ、このところ何度か、両国界隈の揉めごとで、浅草の独眼竜に負けたという噂もある。
両国はいま、江戸でいちばんの歓楽街になっている。ここの実権を浅草のやくざに握られたりすると、やくざの勢力地図は大きく塗り替えられてしまう。
万五郎と丑蔵とは、昔からの知り合いだが、どこまで気心が知れているのかは、虎之助にはわからない。
万五郎の家は、江戸に来たときから、表の商いとして魚屋を営んでいる。だが、先々代から金貸しを始め、儲けも莫大らしい。
住まいは魚屋の裏手にある。そっちへ回り、
「鎌倉の親分に会いたいんだ」
と玄関口で声をかけると、数人いた子分たちが色めき立った。
「おめえは、水天宮の虎じゃねえか」
〈水天宮の虎〉とは、虎之助の通り名である。
「ほんとだ、虎だ」
「なにしに来やがった」
子分たちはいきり立った。いまにも食いつきそうに顔を近づけてくる者もいる。
虎之助は、そんな子分たちのようすをゆっくり見回し、
「そう騒ぐなよ」
落ち着いた声で言った。
「てめえ、殴り込みか」
「一人で殴り込むか、馬鹿。万五郎親分に訊きてえことがあるんだ」
若い衆が一人、奥にすっ飛んで行った。
大名やくざ
虎之助は旗本、有馬家の次期当主。ところが屋敷を一歩出れば、着流しを大きくはだけて目つきは鋭く、「若親分!」と方々から声が飛ぶ。じつはこの虎之助、侠客の大親分を祖父に持つ根っからのやくざだった……。風野真知雄の痛快時代小説シリーズ、『大名やくざ』。次々と舞い込む難題に、稀代の暴れん坊はどう対峙するのか? 読めば江戸にタイムスリップしてしまう、臨場感たっぷりの本書の第一話をご紹介します。