虎之助は旗本、有馬家の次期当主。ところが屋敷を一歩出れば、着流しを大きくはだけて目つきは鋭く、「若親分!」と方々から声が飛ぶ。じつはこの虎之助、侠客の大親分を祖父に持つ根っからのやくざだった……。風野真知雄の痛快時代小説シリーズ、『大名やくざ』。次々と舞い込む難題に、稀代の暴れん坊はどう対峙するのか? 読めば江戸にタイムスリップしてしまう、臨場感たっぷりの本書の第一話をご紹介します。
* * *
待っているあいだに──。
玄関回りをざっと見た。
丑蔵のところとはずいぶん違う。見た目がどこもかしこも、神社の境内のようにすっきりしているのだ。
柱から床まで鏡のように磨き上げられ、白っぽい土間は、一枚の石のように固められている。正面に神棚。なげしに槍。
丑蔵のところの店先など、通りと境目がないくらい、埃にまみれ、ごった返している。
「おや、丑蔵親分のお孫さんじゃないか」
女が顔を見せた。
歳は三十半ばほどだろう。
一度、挨拶したこともある。万五郎の二人目の女房で、おしまといったはずである。
ひどいご面相をしている。白粉のかわりにそば粉でも塗ったかというように、黒くてざらざらした風合の肌をしている。
やくざは見栄っぱりである。たいがい、驚くような別嬪を女房にしている。万五郎ほどの親分が、こんな女を女房にしたというのは、見栄を捨ててもいいだけのなにかが、この女にあるのだ。
「どうも、お邪魔してます」
「ううん、いいのさ。いつでも遊びにおいでな」
「ありがとうございます」
おしまが消えるとまもなく、
「おう、虎之助さん。どうしたい?」
いかにも大店のあるじ然とした万五郎が顔を出した。
たしか五代目で、歳は丑蔵より四つ五つ若い。
むろん初対面ではない。代々の墓が増上寺の子院の中にあるので、参拝に来たときは丑蔵にも挨拶して行くならわしだった。
その万五郎のわきに、相撲取りのような大きな男が座った。背丈は六尺をゆうに三寸は超えるだろう(およそ百九十一センチ)。目方のほうは、おそらく四十貫(およそ百五十キロ)はある。
いざ、なにかあれば、こいつが万五郎の前に立ちはだかるのだ。
「じつは、丑蔵おじいが斬られましてね」
「斬られた?」
「付け火がありまして、火消しに飛び出したところを狙われました」
「まさか、おれを疑ってるのか?」
「とんでもない。その前に、独眼竜の常を見かけているんです。それで、斬ったのは侍だそうでしてね。なんでも、こちらといさかいがあったとき、独眼竜は侍を連れて来たって噂を聞いてましてね」
やくざの動向は方々から伝わってくる。
虎之助が仕入れるのでいちばん確かなのは、町方同心である境勇右衛門という知り合いから入る話だった。
「聞いてたか」
「ええ」
「上方から来た武士だ。東軍流とかいう流派の遣い手らしい」
「東軍流ね」
鼻でせせら笑った。
「殴り込みを手伝って、近ごろ、常の野郎に道場を建ててもらった。いまや、弟子の数も百人近くいるらしい」
「ははあ。名前をご存じですかい?」
「松井金右衛門というのだ。道場は吾妻橋の近くにある」
「わかりました。それだけうかがえれば結構です」
踵を返そうとすると、
「仇を討つ気かい、水天宮の?」
と、万五郎が目を光らせて訊いた。
芝界隈を牛耳る丑蔵一家が、浅草の独眼竜の常を殺す。となれば、それもまた江戸のやくざの勢力地図を塗り替える。
この二十年ほど、ずっと安定していた江戸のやくざの力関係が、大きく崩れる兆候を見せ始めたのかもしれない。
「そりゃあ、おとなしく引っ込むわけにはいかねえでしょう」
と、虎之助は言った。
「松井ってのは、恐ろしく腕が立つぜ。虎之助さんも斬り合いで勝とうとは思わねえほうがいい」
「斬り合いじゃなかったら、なんで勝つんです」
「おれにまかせるこったな。飛び道具を使う手立てもあるんだ」
万五郎としては、虎之助に先んじられるのは嫌なのだろう。だが、江戸で飛び道具など使おうものなら、逆に万五郎一家がお上の手で壊滅させられる。
虎之助は余裕の笑みを浮かべて言った。
「なに言ってんですかい、鎌倉の親分。そんな野郎は、しょせん道場剣法でしょうよ。この世でいちばん強いのは、やくざの剣法じゃねえですか」
九
翌朝──。
虎之助は、丑蔵の家で目を覚ました。
ここに泊まるのはしょっちゅうである。六本木永坂の家でも虎之助の外泊には慣れっこになっていて、もどらないからと心配されることはない。
昨夜、布団に入って、いろいろ策を練った。
完璧な策が浮かんだ。
朝起きると、まずは丑蔵の枕元に見舞った。
夜通し看病したらしく、辰がそばの長火鉢に肘をついてうたた寝をしている。
「おっかあ」
「あ、虎之助」
「おじいはどうだ?」
「ずっと眠ってるよ。夜、熱が出たんだけど、いまは下がってるね」
丑蔵は額に濡れ手ぬぐいをのせている。息は速いが、静かである。
「なんか食わなきゃ力もつかねえだろう?」
「ああ。牛の乳は力がつくっていうから、いま、目黒の百姓のところにもらいに行かせてるよ」
「牛の乳か。丑蔵だけに効くかもしれねえ」
「ほんとだ」
辰は笑った。
「おれは、また、ちっと出かけて来る」
「どこに?」
「有馬の家だよ。それと、昨夜おじいといっしょだった与平ってのに話を訊きてえんだ」
「上で寝てるよ」
「そうか」
二階に行こうとすると、
「虎」
と、辰が呼んだ。
「なんだい、おっかあ」
「あんたは旗本の跡継ぎなんだからね。わかってんだろう?」
それは辰から始終言われていることである。
辰は石野のおやじのことも、武士そのものについても、恨んだり馬鹿にしたりしているくせに、息子には旗本としてやっていけというのは、どういうつもりなのだろう。
「当たりめえだ。わからなくてどうする」
「余計なことに首突っ込むんじゃないよ」
「そりゃそうだよ」
とぼけた返事をして、虎之助は二階に上がった。
それから半刻(およそ一時間)後──。
虎之助と与平は浅草の吾妻橋近くにいた。有馬の家に行くというのは嘘だった。
「お、そこの道場かな」
朝稽古の声が通りにまで聞こえている。
通りに面した窓には、何人もの武士や町人が、中の稽古をのぞくのに張りついていた。
虎之助は窓に近づき、中を見た。
正面の神棚の下に、道場主らしき男が座って、七、八人の門弟たちの稽古を見ていた。
「駄目だ、駄目だ!」
道場主は立ち上がり、
「そなたたちは目が見えておらぬ。相手の目をよく見るのだ。それで全体を見れば、どんな細かい動きも見極められる。そなたと、そなたと、そなた」
三人を指名し、自ら木刀を取って、三人の前に立った。
「よいか、それぞれ勝手に打ち込んで来い。遠慮はいらぬ」
「そんな、よろしいので」
師匠に対して、三人で打ちかかることにためらっているらしい。
「来ないなら、こっちから行くぞ」
「わかりました」
三対一で対峙した。
「おりゃあ」
「たぁっ」
「きぇい」
掛け声が響くとすぐ、道場主が右から回り込むように動き、相手の木刀をかわしながら、胴、肩、腕と打った。
寸止めもしっかりできていて痛くもなかったのだろうが、それよりも三人は、師匠の目にも止まらぬ動きに呆然となった。
窓から中の稽古を見ていた者からも、
「凄いな」
「どれだけ強いんだ」
などと、次々に声が洩れた。
「おい、与平。いま、三人を打ちのめしたあの男。顔をよく見るんだ」
と、虎之助は言った。
「はい」
「おじいを襲ったのは、あいつじゃなかったか?」
与平はじいっと見ていたが、やがて目を見開き、
「あいつです。あの濃い眉と、奥目の面は間違いありません」
「よし、わかった。おめえはもう帰れ」
「まさか、虎之助さん。道場破りでも……?」
さっきの強さを見たからだろう。不安げな顔をしている。
「いいんだ。ここから先は丑蔵一家に関係ねえことだ」
「でも……」
「与平。おれがおとなしく言っているうちに帰れ。な、おれが怒るとどうなるかはわかってるだろ?」
虎之助が静かな声でそう言うと、
「わ、わかってます」
与平は後ずさりし、踵を返して駆け出した。
それを見送って、
「さて。まずはこの恰好じゃ駄目だ」
と、ひとりごちた。
あたりを見回す。
吾妻橋を本所のほうから渡って来た武士がいた。
歳は二十歳くらいか。背丈は虎之助とそう変わらない。
「おう、お侍さん」
虎之助は気軽に声をかけた。
「な、なんだ?」
「ちょっと、そこまで。ちょっとだけ」
無理やり袖を引き、裏通りに連れて行くと、
「おう、急いでるんだ。袴と羽織を貸せ」
虎之助はいきなりそう言った。
「な、なにを言うんだ?」
「怪我したくなかったら、早く脱げ。用が済んだら返す。どこに行くんだ?」
「浅草寺の前の古本屋に」
「だったら羽織も袴もいらねえだろうが。帰りにまたここに寄れ。そこの木にかけておくから」
凄まじい形相で言った。
「う、嘘ではないな」
「嘘なんか言うか。ほんとに脅すなら、おめえの巾着をもらうだろうが」
「わかった」
若い武士は、虎之助の迫力に負け、袴と羽織を脱いだ。
かつてはこうやって町を歩く武士から巾着を奪った。いまは、そんなことはしない。ちょっと袴と羽織を借りただけである。
すばやく身につけ、髪を整えた。
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