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料理通異聞

2019.07.26 公開 ポスト

#2 淡い恋心を胸に秘め…料理を題材にした時代小説の傑作松井今朝子

そうそうたる時代の寵児たちとの華やかな交遊。そして、想像をかき立てられる江戸料理の数々。相次ぐ天災と混乱の時代に、料理への情熱と突出した才覚でその名をとどろかせた男がいた。その名も福田屋善四郎……。直木賞作家、松井今朝子の『料理通異聞』は、彼の波乱万丈の生涯を描いた作品だ。「料理を題材にした時代小説の最高傑作」とも評される、本書の冒頭をご紹介します。

*   *   *

あんな可愛らしい顔をして、一体どこにあれだけの気の強さがあるのかと訝りつつ、善四郎は感心もしていた。自分と同い年くらいの娘が借金を申し込むという度胸にまず驚いたし、そうした気の毒な運命を甘受して懸命に生きている姿を見ると、自分もちょっとやそっとのことでめげるわけにはいかない気になるのだった。

(写真:iStock.com/violet-blue)

だが今日はいつもと少し様子が違う。娘は下唇を強く嚙みしめて泣き声を洩らすまいとしているようで、口角の右下を飾った愛らしいほくろが震えて見えた。円らな眼から今にも涙がこぼれ落ちようかという寸前に、幸い主人は手文庫から小判包みを取りだした。

すでに結構な時が過ぎ、土蔵や庭木の翳が畳を広く覆っていた。主人は今日もとうとうしてやられたという不機嫌な顔ながら、「お屋敷まで、そなたがお送りせよ」と善四郎にいいつけるのは忘れなかった。

水野の屋敷は裏手が隅田川に面して桟橋が設けてあり、お抱えの船頭もいて、人の送り迎えに不自由はしなかった。善四郎は自分からまず舟に乗り込んで、腰元のほうに手を伸ばす。お供を先に乗せてお嬢様の手を取らせようとしたのだが、夕風が出はじめていて川面が思ったより波立つせいか、相手はえらく尻込みをしている。

横合いからいきなりぎゅっとこちらの手をつかんだのはお嬢様のほうで、意外な力強さで手繰り寄せ、いっきに飛び込んで来た。途端に小舟が大きく揺れ、相手の躰が斜に崩れて善四郎に降りかかる。思わず胸を抱き止める恰好で、刹那、脂粉と薫物の合わさった甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐって、一瞬ぞくっと腰が震えた。善四郎にとって忘れがたいその強烈な瞬間に、千満は何喰わぬ顔で船端に座り込んでいた。

三人の腰が落ち着けば舟もさほどに揺れず、内藤采女正の屋敷がある本所中之郷へと速やかに下って行く。善四郎はまだ胸がどきどきして、ひと言も口がきけなかったが、見まいとしても、目は自ずと千満の姿に惹きつけられた。ほつれが目につく鶸色の振袖は一張羅なのかして、いつも通りだ。

着るものはいつも通りでも、いつもならもっと潑剌としているはずの顔が今日はそうでもない。千満の横顔は飴色の陽に深い翳りをつけられて、後れ毛を搔きあげながら水面に目を落とした表情がえらく沈んで見える。ややもすれば躰ごと水に沈みそうな危うさを感じた。

善四郎は相手が誰であれ、気が鬱いで見えると放っておけなくなる性分だ。竹町の桟橋で舟を降りると、身分を顧みず、つい自分のほうから声をかけてしまった。能天気なほどに朗らかな声である。

「このあたりには、ガキの時分からよく参っておりまして」

急に話しかけられた娘はびくっとして立ち止まった。

「毎朝ここに前栽市が立ちますんで」

娘のぽかんとした顔は歳相応に可愛らしく見えた。

同じ蔬菜のうちでも菜っ葉の類は青物、芋や根菜は土物、茄子や南瓜の類を前栽物というし、また多種の蔬菜でなく一種や二種に限って売り歩く者は八百屋ではなく前栽売りと呼んだりするが、この竹町河岸には主に葛西辺で穫れた蔬菜を並べて市が立つ。今は露台も片づけられてがらんとしているが、ここへはうちから吾妻橋を渡ってでも来られるし、仕入れが多い時は山谷堀へ舟を出して通うことにもなり、善四郎はよく荷下ろしの手伝いで来ていたのだ。

「そなたの家は、料理屋なのか」

相手が初めて自分に口をきいて、しかも自分のどうでもいいような身の上話を存外ちゃんと聞いてくれたことに善四郎はいたく感激し、ついまた余計な言葉が飛びだした。

「お嬢様は、何かご心配事でも……」

相手は一瞬表情を硬くしたが、

「左様な顔をしておるか」

返事は意外なほど落ち着いていた。ただ相変わらず鬱いだ表情なので、善四郎はまだ引き下がらない。粘り強さではこの娘に負けていなかった。

「思いきってお話しになれば、少しは気が晴れましょう」

傍らの腰元は呆れたような顔でこちらを睨んだが、当の娘はまだ歳が若いせいか、町人ごときに立ち入ったことを訊かれて無礼だ、というふうには思わないようである。

「父上が、お悪いのじゃ」

思いがけずあっさり打ち明けられると、却って善四郎のほうが狼狽えた。聞いたところで、こちらがどうする術もないが、千満は独り言のように話し続けている。

「すでに隠居届けはお上のほうでお聞き入れになって、家督は無事に弟が相続するであろうがのう……まだ若い身ゆえ案じられてならぬ。この先も寄合金を調えるのに苦労するであろうなあ……」

無役の旗本は小普請金や寄合金といったものを幕府に上納せねばならず、その上納金の調達で汲々としているのは善四郎が水野の屋敷に来て知ったことだ。それはどうしようもないにしろ、その前に聞いた病人の話はなんとかして差しあげたい。

「御父上様の召しあがりものに、お困りではございませんか」

千満は一瞬きょとんとした顔になり、それからこちらの身の上を想い出したのだろう、ゆっくりと肯いた。

(写真:iStock.com/ahirao_photo)

食の細った病人の話は、水野の屋敷へ戻っても善四郎の胸から離れなかった。

祖父が床に就いた時は、茹でた枸杞や五加木の葉を刻んで白粥に混ぜたものだ。病人でも、何か柔らかな実を浮かべた清まし汁なら飲めるだろう。今が旬の白魚を奮発して吸物の実にしたら、嚙まなくてもほろりと身が崩れて喉越しがいい。刺身も精進仕立てで葛粉を用いた水蟾にすれば、あのつるんとした歯ごたえと舌触りが平目の縁側を想い出させるかもしれない。豆腐もよかろう。酒と醬油と水だけで煮た八杯豆腐もさっぱりとするが、自然薯を擂って豆腐の上にかければ気血の滋養になる。次から次へと瞼に浮かんで口に湧いた生唾を、善四郎はぐっと呑み込んだ。全体これでは誰のための料理かわからなかった。

果たして金貸しは人助けの一種かもしれない。水野平八という主人を間近で見ていると、そんなふうに思えなくもなかった。見るからに強欲で酷薄な子銭家という人相からはほど遠く、何しろ借り手が大名だから、催促の仕方も至って穏当である。おまけに善四郎に対しての扱いが頗るやさしいために、当人が勘違いを起こすのは無理もなかった。

しかしながら病臥する内藤采女正に食事を調えたいと申し出たら、さすがの主人もほとほと呆れたような顔で、しばし善四郎のにきび面をじっと見すえたものだ。

「そなたは左様なことがしたいのか……氏より育ちとは、よくいったもんだのう」

あきらかに落胆の気分が滲み出ていたので、善四郎は恥ずかしさにうなだれてしまった。

ふと、この屋敷に来て間なしの頃に、古株の手代から今のようにじっと見つめられて、

「ああ、血は争えませんなあ」

と畏れ入ったふうにいわれたことが想い出された。

そもそも元服してからずっとここに留め置かれていること自体が怪しむに足る話であった。常に主人の身近におれば、時に並ならぬ縁の深さを感じたりもするが、善四郎はそれについて相手に訊くのはむろん、自身で考えることさえ知らず識らずに封じてきたのだ。

血のつながる父親が判然としたところで、子は必ずしも幸せになれるわけではない。この家には去年すでに袴着を済ませた男子がいて、その子が無事に育てば当然ながら跡取りになる。善四郎にとって、ここは生涯にわたる居場所ではないことを、当人自身も、実の父親もよく承知していた。

考えてみれば、この世すら人がずっと居続けられる場所ではないのだ。改めてそう強く思うようになったのは、うちの近所でも札付きの暴れん坊が、去年の地震で、寺の屋根から落っこちてきた瓦に当たって、あっけなく死んだと聞いた時だ。厨に押しかけてよく残り物をねだっていたあの男は、いつもあんなに旨そうに喰っていたのに、もう二度と喰うことができなくなったのである。

人は生きてこの世にある間だけ、なるべく旨い物を喰って、やりたいことをするしかないのだ。善四郎はそんなふうに妙な悟り方をしたので、内藤家の件も決して諦めようとはせず、ついには主人も折れて、感慨深げにこう呟いたものだ。

「誰に似たのかは知らんが、そなたがさほどに人助けをしたがるのは、業が深い金貸しのわしに代わって、罪滅ぼしをしてくれるのかもしれん……」

橋場と新鳥越町はひとまたぎだから、昼過ぎには福田屋の厨で源治と談判に及んでいた。善四郎は水野の主人が注文したふうに話したので、源治は早速下拵えに取りかかった。

粥の中に入れる五加木の葉は、帰途に通りかかった垣根で見つけて摘んだのを源治に手渡した。献立は概ね善四郎が想い描いた通りになりそうだったが、残念ながら白魚だけはそうすぐ手に入るものではないらしい。

源治が俎板に載せたのは白魚とは似ても似つかぬ大きな魚で、しかも赤い珍妙な顔をした方頭魚である。こんなものがどうして代用できるのかと怪しむばかりだが、出刃を立てて細かい鱗をしゃりしゃりと搔き、頭を落として三枚に下ろしたら、外見と打って変わって綺麗な光沢の白身が現れた。それがまた無惨に切り刻まれるのを見て、善四郎は勝手知ったる厨の戸棚から擂り鉢を取りだしている。

「へええ、若旦那がそんなお手伝いまでして下さるたあ、槍でも降らにゃいいがねえ」

源治の冷やかしで善四郎はハッとした。所詮は要らぬお節介ではなかろうか……。

どだい先方の事情を少しくらい聞いたばかりで、料理を届けるのはどうかしている。それも本当に病人の身を案じた人助けというよりは、あの可愛らしい娘の顔を晴れやかにしたい一心なのかもしれない。むろん変な下心があるわけではない、と善四郎は自らにいいわけをした。同じ年頃だから気になるだけだと、にきび面で思い込んでいる。

源治に教わった通り、擂り粉木の先で三つ葉を描くようにして白身を潰している間にも、あの娘の顔が目先にちらつき、擂り練られた白身は娘の肌を想い出させて、時に手の動きが止まったり、速まったりした。

源治がその擂り身に山芋をたっぷり加え、さらにそれを篩で丁寧に裏漉して蒸しあげると、白魚と見まごうような喉越しのいい汁の実が仕あがった。

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料理通異聞

そうそうたる時代の寵児たちとの華やかな交遊。そして、想像をかき立てられる江戸料理の数々。相次ぐ天災と混乱の時代に、料理への情熱と突出した才覚でその名をとどろかせた男がいた。その名も福田屋善四郎……。直木賞作家、松井今朝子の『料理通異聞』は、彼の波乱万丈の生涯を描いた作品だ。「料理を題材にした時代小説の最高傑作」とも評される、本書の冒頭をご紹介します。

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松井今朝子

1953年、京都生まれ。割烹「川上」の長女として祇園に育つ。早稲田大学大学院文学研究科演劇学修士課程修了後、松竹株式会社入社。その後フリーとして歌舞伎の脚色・演出・評論を手がける。97年『東洲しゃらくさし』(幻冬舎文庫)で作家デビュー。同年『仲蔵狂乱』(講談社文庫)で第8回時代小説大賞を受賞。2007年『吉原手引草』(幻冬舎文庫)で第137回直木賞受賞。

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