愛人の援助を受けセレブ気取りで暮らす千遥は、幼いころから母の精神的虐待に痛めつけられてきた。一方、中学生のとき父を亡くした亜沙子は、母と二人助け合って暮らしてきた。母に愛してほしかった娘、母の愛が重かった娘……。結婚を機に、それぞれの歪んだ母娘関係が暴走していく。直木賞作家、唯川恵の家族小説『啼かない鳥は空に溺れる』より、冒頭部分をお届けします。
* * *
その夜、午後七時に、仲林明夫と青山で待ち合わせた。
先日、ブログに載っていた日本料理店である。もちろん、高級な夜の懐石コースだ。日本酒の大吟醸も注文したので、あの母娘の食事代の十倍にはなるだろう。
食事を済ませた後、タクシーに乗り、ふたりでマンションに戻って来た。
仲林との付き合いはもう五年近くになる。出会った頃は週に二度も三度も会ったものだが、最近では月に二、三度といったところだ。仲林はそろそろ六十歳になる。
部屋に入ったとたん、仲林が言った。
「前に来た時と何か感じが違うな」
一瞬どきりとした。
「そう? 変わんないと思うけど。何か飲む?」
「熱い日本茶がいいな」
千遥はキッチンに行き、用意を始めた。最近、仲林はめっきりお酒に弱くなった。さっきの大吟醸も少し口を付けただけだった。
「男でもできたか?」
仲林が笑って言った。本気なのか冗談なのか判断はつかない。仲林は時々、そういう捉えどころのない言い方をする。
「まさか。あなたのマンションでそんなことするわけないじゃない」
部屋は朝、丹念に片付けたので、功太郎の痕跡は残っていないはずである。
「千遥はまだ若いんだし、そうなっても仕方ないと思ってるよ」
「本気で言ってるの? だったらそうしようかな」
急須に茶葉を入れ、湯を注ぐ。仲林の返事はない。
「知ってるでしょ。私は男なんかより、ショッピングしたりスポーツジムに通ったりする方がずっと好きなの」
「ああ、わかってるさ。それはそれで困ったもんだけど」
ソファで寛ぐ仲林に茶を出してから、バスルームに行って湯をためた。これから一緒に風呂に入り、ベッドでセックスをする。手順通りの夜が待っている。
「千遥、結婚はどうするつもりだ?」
ふたりで湯に浸かりながら、仲林が尋ねた。
「何で急にそんなこと聞くの?」
以前は、待ちかねたように千遥の乳房や性器に手を伸ばしたものだが、最近はそれもない。
「そろそろ考えてもいい年頃だと思ってさ」
もしかして別れ話を持ち出すつもりだろうか。
千遥は身構えた。別れたら、ここに住めなくなる。お小遣いがもらえなくなる。とてもじゃないが今のような暮らしはできない。
「もしかして、会社、うまくいってないの?」
「何だ、それ」
仲林が笑い、声が浴室の中でビブラートした。
「だって」
「そんなんじゃないさ。ここを追い出そうなんて思ってない。いたけりゃいればいいんだ。しかし、ずっとこのままというわけにもいかないだろう。私だって千遥を手放すのは惜しいが、いずれはそういう時が来る」
結局言っていることは同じではないか。すぐにではないかもしれないが、仲林はこの関係に期限をつけようとしている。
結婚。それを想像しようとした。しかし、どうにも思い浮かばない。自分が誰かの妻になる、誰かの母になる、そんな姿は想像もつかなかった。
風呂から上がり、少し遅れてベッドに入ると、仲林はすでに眠っていた。今日もセックスはしないのだろうか。ここのところ、仲林はよく「疲れた」と言って、千遥の身体に触らずじまいで帰ることが増えていた。起こそうか。でも、セックスがないなら、それはそれで楽だ。いつしか、千遥もうとうとしていた。目を覚ますと、十一時半になろうとしていた。
「ねえ、そろそろ時間よ」
「ああ、そうか……」
仲林はだるそうに身体を起こし、ベッドから出て服を着る。以前は泊まっていくことも度々だったが、最近は必ず自宅に帰る。
「また電話するよ」
「うん、そうして」
玄関で仲林を見送ってから、寝室に戻ったところで足が止まった。
〈だから言ったでしょう〉
ミハルが皮肉な表情でベッドの端に腰を下ろしていた。
〈あの人、気が付いたのよ、千遥が男を引っ張り込んでるの〉
「そんなわけないって」
〈だから、別れ話を切り出したのよ〉
「別れるなんて、ひと言も言ってないし」
〈捨てられたらどうするの? 千遥の年収じゃ、こんな高級マンションになんか住めないよ。ブランド品だって買えないし、エステにだってスポーツジムにだって通えなくなる。待ってるのはみじめな生活だけよ〉
「わかってるって。何度も同じこと言わないで」
口惜しいが、千遥も同じ思いだ。すべては仲林の援助があってこその暮らしである。今更、家賃七万円の古いアパートになんか住みたくない。ノーブランドのバッグなんか持ちたくない。ちまちま自分でパックをしたりマニキュアを塗ったり、スーパーで値下げコーナーを漁る真似なんかしたくない。絶対に今の生活を手放したくない。
仲林と出会ったのは、会社とは別に、週一回出ていたアルバイト先である。
その頃、千遥は毎日、欲望と闘っていた。性欲ではない。ある意味、もっと厄介な欲望だった。
シャネルのバッグはカードローンで何とか支払ったが、ショップで味わった恍惚感はどうにも忘れることができなかった。どころか、募る一方だった。その欲望はあまりにシンプルで、それゆえ頑強だった。手に入れられない現実は、自分という存在が否定されているような気がした。
どうして自分がこれほどまでに欲望にかられるのか、千遥はうまく理解できなかった。ただ、それが、母から連絡があった後に強くなる、ということだけはわかっていた。
母の電話はいつも唐突だ。その上、自分の言いたいことしか言わない。大概は、近所の悪口か親戚への不満、身体のここが悪いだの痛いだのという愚痴である。気が済むまで、一方的に喋りまくり、そして最後はいつも、すべての怒りを千遥へ集中させることで決着を付ける。
子供の頃からそうだった。物心ついた時から、母に穏やかな物言いをされた記憶はなかった。母は常に千遥に苛つき、腹を立て、感情を剥き出しにして攻撃した。いい加減慣れてもいいと思うのだが、どうにも慣れない。三十二歳になった今も、母から悪し様に言われるたびに、千遥は胸が潰れそうになる。
そして、それに比例するように、千遥の欲望は大きくなるのだった。店員をかしずかせる喜び、高級品を身に着けた時の優越感があればすべてをチャラにできた。それはやがて買い物だけにとどまらなくなった。人気のレストランに行きたい、スポーツジムに通いたい、エステに、ネイルサロンにと、どんどん膨らんでいった。
その欲望を満たすためには、どうしてもお金が必要になる。
アルバイトをする気になったのはそのせいだ。水商売なら高い給料がもらえると思い、六本木のクラブのホステス募集に面接に行ったが、時給は二千円ほどで期待するほどではなかった。どうしようか迷っていると、その帰り、声を掛けられたのだ。広めの襟幅のスーツを着た、四十歳くらいの痩せた男だった。
男は、愛想のいい笑顔を浮かべながら「こんな仕事に興味はありませんか」と、名刺を差し出した。ファッションヘルス、と書いてあった。
「あなたぐらいの美人なら、週に一度、四時間ばかり出てくれるだけで五万は稼げますよ。それだけで月に二十万。悪くないでしょう。うちは客筋もいいし、素人の女の子がウリなので、何の心配もないですから」
男は強引に名刺を押し付けた。その時は、腹立たしさでいっぱいになった。何で私が、という気持ちだった。
変化が起きたのは、やはり母からの電話である。
母は、また親戚と揉めたらしい。原因はわからない。もともと原因など関係ない。ただただ母は激しい怒りを千遥にぶつけて来た。どんな対応をすればいいのだろう。黙っていれば「ちゃんと聞いてるの?」と怒り出す。言葉を挟めば「生意気言うんじゃないわよ」と憤慨する。迷って口籠っていると、母は逆上した。
「あんた、母親に掛ける言葉もないの。こんな思いやりのない子を産んだなんて一生の不覚だわ。この親不孝者!」
電話を叩き切られて、千遥は追い詰められたような気持ちになった。同時に、身体の奥底から、欲望が炎のように湧き上がって来るのを感じた。
欲しい、欲しい、欲しい。
その時、名刺を思い出したのだ。あの仕事をすれば月に二十万稼げる。
〈私は反対よ〉
ミハルは断固として言った。
「でも、こんな割のいいバイトはないよ」
「そりゃあ」
〈売春なんて〉
「違うよ、売春じゃない」
〈同じでしょ〉
「売春は犯罪だけど、風俗は法律でも認められている職業だもの」
〈そんなのこじつけよ〉
「だって──」
返す言葉が見つからず、こらえきれなくなって千遥は叫んだ。
「お金がないと欲しいものが手に入れられないんだもの、しょうがないじゃない。私、どうしても欲しいのよ。欲しくて欲しくてたまらないの。わかるでしょう、このままじゃ私、どうにかなってしまう」
ミハルは悲しげな目で千遥を見つめると、もうそれ以上、何も言わなかった。
最初は一度で辞めてもいいと思っていた。けれども、帰りに五万を手渡され、それで前から欲しかったエルメスのスカーフリングを買うと、一気に心が華やいだ。喉元に引っ掛かっていたかたまりがすうっと落ちてゆくようだった。母への鬱憤も消えていた。その日から週に一度、店に出るようになった。
啼かない鳥は空に溺れる
愛人の援助を受けセレブ気取りで暮らす千遥は、幼いころから母の精神的虐待に痛めつけられてきた。一方、中学生のとき父を亡くした亜沙子は、母と二人助け合って暮らしてきた。母に愛してほしかった娘、母の愛が重かった娘……。結婚を機に、それぞれの歪んだ母娘関係が暴走していく。直木賞作家、唯川恵の長編小説『啼かない鳥は空に溺れる』より、冒頭部分をお届けします。