愛人の援助を受けセレブ気取りで暮らす千遥は、幼いころから母の精神的虐待に痛めつけられてきた。一方、中学生のとき父を亡くした亜沙子は、母と二人助け合って暮らしてきた。母に愛してほしかった娘、母の愛が重かった娘……。結婚を機に、それぞれの歪んだ母娘関係が暴走していく。直木賞作家、唯川恵の家族小説『啼かない鳥は空に溺れる』より、冒頭部分をお届けします。
* * *
仕事は、客を個室でマッサージするというものだ。最初は、知らない男の身体を触るのも、自分が触られるのも嫌でたまらなかったが、お金を受け取るたびに麻痺していった。それで新しい服や靴を買い、綺麗に仕上がったネイルを見ると気持ちが晴々した。
仲林は常連客のひとりだった。中卒からの叩き上げで、今は八王子で従業員三百人ほどにもなる土建会社を経営しているという。仲林は、お嬢さま然とした千遥をいっぺんで気に入ったようだ。三回通った後、こう尋ねた。
「君、ヒモでもいるの?」
仲林は年相応で、決して見栄えがいいというわけではない。けれども、店に来る時のラフなジャケットは一目で上質とわかるものだったし、胸ポケットに無造作に入れられた財布もいつも分厚かった。
「どうしてですか?」
「君みたいな子が、こんなところで働いているのは、何か事情があるんだろうと思ってね」
「ヒモなんていません」
「じゃあ、何のため?」
千遥は口籠りながら答えた。
「いろいろお金がいるから……。欲しいものもたくさんあるし」
仲林は見方によっては悲しげな顔をした。
「なるほど、お小遣い稼ぎってわけか。今はそういう時代ってわけだ。それで、どれくらい稼いでるんだ?」
千遥が正直に答えると、さらりと「だったら、私が援助しようか」と、言った。
意味がすぐにはわからなかった。けれども、理解したとたん、頷いていた。
お金のためとはいえ、知らない男たちにサービスするのはやはり生理的な嫌悪がある。それなら、仲林の愛人になる方が、よほど気が楽だった。仲林は不潔ではないし、しつこくもない。金払いのいい上客だ。不特定多数の男たちを相手にするよりずっとマシだ。
実際、仲林は千遥の欲求を十分に満たしてくれた。所有していたこのマンションを提供してくれ、欲しいブランド品を買ってくれ、有名なレストランに連れて行ってくれた。エステにもネイルサロンにもスポーツジムにも通えるようになった。もう、欲しいものを我慢する必要はない。今の暮らしは、千遥にとって満ち足りたものだった。
2 亜沙子
食卓に着くと、母が待ちかねたようにA4の用紙を並べた。
「今度のランチだけど、どこにする?」
用紙には、母自らパソコンで検索した三軒のレストランの情報が印刷されている。
「先週は和食だったでしょう。その前はパスタだったから、エスニック料理もいいかなって調べてみたの。あとは銀座の牛しゃぶ店と、中目黒の豆腐専門店。湯葉がとってもおいしいんですって。どこも素敵なお店で迷っちゃう」
母は嬉々として言う。亜沙子は鮭の切り身を口に運んだ。
夜九時。今夜は残業だから食べて来る、と言ったのに、やはり母は用意していた。「だって、もし食べそこなったら困ると思って」というのが母の言い分である。せっかく用意してくれたのに、箸を付けないのも気が引けて、こうしてつい食べてしまう。
母の紀枝はもう五十代半ばだが、いつまでも少女みたいなところがある。喋り方もそうだし、色白で、笑うと右頬にエクボができ、少し太っているせいもあって全体的にふんわりとした印象だ。
中野にある自宅マンションは六十平米だが、ふたり暮らしにはちょうどいい広さである。
「それなんだけど、今週末は展示会があるから、行けそうにないんだ」
亜沙子はもごもごと答えた。
「あら」
「ごめん、もっと早く言っておけばよかったね」
「じゃあ日曜にする?」
「土日続けての展示会だから、日曜も無理なの」
「そう……」
母の声にあからさまな落胆が滲んでいった。
「でも、仕事なら仕方ないものね」
母が、広げた用紙をのろのろと重ねてゆく。
「あとは片付けておくから、おかあさん、先に寝ていいよ」
「じゃあ、お願い」
母が椅子を立ち、ダイニングを出て行った。
亜沙子は食事を済ませ、流しで食器を洗い始めた。
母が、亜沙子との週末ランチを何よりも楽しみにしているのはわかっている。十三歳の時に父を亡くしてから、母とふたり、肩を寄せ合うようにして生きて来た。苦労は間近で見て来ている。あれから十四年、亜沙子は二十七歳になり、母も五十代半ばとなった。暮らしも落ち着いて、ようやく娘との生活を楽しめるようになったのだ。週末ランチぐらいで親孝行ができるなら容易いことではないか。
それなのに、最近、どこか負担に感じ始めている自分がいる。
「結局、君にとってのファーストプライオリティはおかあさんなんだな」
それは、三月ほど前に言われた言葉だった。異業種交流会で知り合った男である。付き合って、半年ばかりがたっていた。
あの時、男の言葉に、亜沙子はひどく腹を立てた。
「私と母がどんなふうに生きて来たかも知らないくせに、わかったようなこと言わないで」
強い口調で言い返すと、男は恐れをなしたように口を噤んだ。結局、それがきっかけで、ぎくしゃくし始め、会っても会話が途絶えがちになり、メールが来たかと思うと「そろそろ限界だと思う」と書かれていた。
もちろん後悔はない。別れをメールで済ませようとする男なんて、別れてよかったと思っている。
それでも、言われた言葉は澱のように心に淀んでいた。
男からすれば、どうして自分とのデートより母との予定を優先させるのか、と不満だったに違いない。確かに、母との夕飯、母との買い物、母との旅行、そして母との週末ランチを理由に断ったことが何度かある。亜沙子にすれば長いふたり暮らしの中で、身に付いた習わしのようなものだが、男にとっては理解しがたい気持ちもあったのかもしれない。
だからといって、責められることではないはずだ。苦労を掛けた母を喜ばせようとするのは、娘としてまっとうな在り方ではないか。
それでも今となると、何か違っていたのかもしれないと考えてしまう。どこかもやもやした感覚が、喉の奥に引っ掛かった小骨のように残っていた。
今週末、展示会が催される。本当は土日のどちらかに顔を出せばよかったのだが、思い切って両日とも参加すると申し出たのはそのせいだ。何も母とのランチばかりで週末を過ごすわけではない、と、自分を納得させたかったのだ。
洗い物を終えて、風呂に入った。日中は座り仕事ばかりなので、湯船に浸かると、固まった身体がゆるゆるとほどけてゆく。ふう、と息を吐いたところで、母の残念そうな顔が浮かんだ。
きっと張り切ってランチの店を調べたのだろう。亜沙子の気に入りそうなところを厳選したのだろう。母は殊更趣味があるわけではないし、一緒に出掛けるような親しい友達がいるわけでもない。月曜から金曜までパートで働いて、普段は倹約に心を砕き、楽しみと言えば少し贅沢な亜沙子との週末ランチぐらいだ。
次第に後ろめたさが膨らんでいった。母がそれを楽しみにしているのなら、叶えてあげればいいではないか。ランチぐらい、大したことないではないか。たかだか男に、それも別れた男に言われた言葉ぐらい、何を気にする必要があるだろう。
風呂から上がる頃には、気持ちは翻っていた。髪を乾かして、亜沙子は母の部屋の前に立った。
「おかあさん、もう寝た?」
「ううん、起きてるわよ」
「開けるね」
顔を覗かせると、母はベッドで本を読んでいた。
「さっきの話だけれど、土曜、お昼に少し抜け出させてもらうことにする」
「いいのよ、無理しなくても」
「平気、何とかするから。展示会は汐留だから、その辺りでお店、探しておいてくれないかな」
「わかったわ。調べておくね」
嬉しさを隠しきれないように、母は華やいだ笑みを返した。
十四年前、父は仕事中に心筋梗塞で死んだ。
会社から連絡を受けて、母とふたり病院に駆け付けた時にはもう、父は冷たくなっていた。
亜沙子にとって、もちろん父の死は大きなショックだったが、母の狼狽ぶりはほとんど常軌を逸していた。それは子供の目から見ても尋常とは思えず、父の遺体に取りすがって泣き叫ぶ母に「おかあさん、しっかりして」と、なだめたのは亜沙子の方だった。
通夜と告別式は、父の会社の人たちが取り仕切ってくれた。その間も、母はまともに喪主席に座っていられないほど打ちのめされていた。その憔悴しきった姿に、母もこのまま死んでしまうのではないかと、亜沙子はずっと母の手を握り続けていた。
通夜と告別式を済ませ、荼毘に付され、遺骨が白い箱の中に納められ、精進落としが終わり、父の遺骨を胸にマンションに戻った時、一緒だったのは、田舎から出て来た父方の親戚である。父の両親はすでに亡くなっていて、母の縁者もみな帰っていた。彼らはこの時を待っていたかのように、くどくどと文句を言い始めた。
あいつの身体の具合はどうだったのか。きちんと健康管理はしていたのか。だったら、何故突然死んでしまうようなことになったのか。父の親戚たちにしても、悲しみと驚きは大きかったに違いない。しかし、精進落としの酔いもあって、行き場のない不満を母へと集中させた。
彼らは父の死だけでなく、何もかもが気に入らなかったようだった。どうして寺ではなく葬儀センターのような場所で行ったのか。どうして自分たちを差し置いて会社の人間が葬式を段取りしたのか。読み上げた弔電の順番にもケチをつけた。挙句の果てには、生命保険はいくら入るのか、労災は下りるのか、と、まるで罪を白状させるかのような口調で母に畳み掛けた。
母は正座したまま、じっと俯いていた。母はまだ四十歳を過ぎたばかりで、父の親戚たちの前ですっかり萎縮し、膝の上で握り締めた手の甲に涙を落とすばかりだった。
いちばん辛い思いをしているのはおかあさんなのに、この人たちはどうしてこんなひどいことが言えるのだろう。
「弟はおまえに殺されたようなもんだ」
そんな残酷な伯父の言葉に、亜沙子は思わず立ち上がって、叫んだ。
「おかあさんは悪くない! おかあさんを責めないで!」
彼らは目を丸くして亜沙子を眺めた。それから眉を顰めて「子供の躾もできていないのか」と、苦言を吐いた。
あの時、亜沙子は心に誓ったのだ。
これからおかあさんは私が守ろう。一生、おかあさんの味方でいよう。おかあさんのために強くなろう。
啼かない鳥は空に溺れる
愛人の援助を受けセレブ気取りで暮らす千遥は、幼いころから母の精神的虐待に痛めつけられてきた。一方、中学生のとき父を亡くした亜沙子は、母と二人助け合って暮らしてきた。母に愛してほしかった娘、母の愛が重かった娘……。結婚を機に、それぞれの歪んだ母娘関係が暴走していく。直木賞作家、唯川恵の長編小説『啼かない鳥は空に溺れる』より、冒頭部分をお届けします。