ある調査によると、日本人の「年間セックス回数」は世界最下位だそう。しかし、それは真実なのでしょうか? こうした統計データ、アンケート調査、世論調査などにひそむ「嘘」をあばくのは、テレビでもおなじみのエコノミスト、門倉貴史さんの『本当は嘘つきな統計数字』。だまされないために、ぜひ読んでおきたい本書の一部をご紹介します。
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「閾値」の設定に問題あり
心理学や生理学、医療の分野では、「閾値」と呼ばれる値が注目されることが多い。「閾値」というのは、ある特定の現象Aが別の現象Bを引き起こすと考えられるとき、現象Bを引き起こすかどうかのちょうど境界線上にある現象Aの値を示す。
筆者の専門である経済学の分野でも「閾値」はある。たとえば、消費者が商品を購入するかどうかを決定する場合、買うか買わないかの境界にある「閾値」の値段は必ず存在する。
さらに、環境の分野でも「閾値」は重要視されている。汚染物質がどれぐらいの濃度になると健康リスクにつながるかといった環境基準は「閾値」を見つけてから設定される。ただし、アスベストには、どれぐらいの濃度から健康被害のリスクが高まるのかという明確な「閾値」が見つかっていない。アスベストは、どんなに低い濃度であっても、それなりに健康被害を引き起こすリスクがあるということだ。
通常、「閾値」は、実験などから得られた大量のデータをもとに特定の数値で示されるが、もし「閾値」の設定が恣意的なものであったり、妥当性を欠いたものであれば、「現象Aが『閾値』を超えているから現象Bが起こる」というように短絡的に判断すると、重大なミスリーディングにつながる恐れがある。
「閾値」の設定が妥当でないとの指摘がある具体的な事例として、メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)を判定する際の腹囲の「閾値」がある。
日本では08年4月から特定健診の制度がスタートした。いわゆる「メタボ検診」と言われているものだ。「メタボ検診」は、40歳以上75歳未満の全国民が対象となっており、メタボリックシンドロームを予防することを目的としている。
「メタボ検診」は医療費削減という狙いもある。政府の試算によると、適切な保健指導を通じて国民のメタボ予防に成功すれば、将来の医療費が年間2兆円削減できるようになるという。
そして、この「メタボ検診」では、メタボかどうかを診断する際の基準として、腹囲の「閾値」が設定されている。男性は腹囲が85センチメートル以上、女性は腹囲が90センチメートル以上であれば、将来、心筋梗塞や脳梗塞になるリスクが高まるので、保健指導の対象になるというものだ。
逆に医療費がふくらんでいる?
検診では、腹囲の測定は必須項目となっており、腹囲が「閾値」を下回っていれば、保健指導の対象にはならない。腹囲が「閾値」を超えている場合、そのほかに血糖、脂質、血圧の3項目のうち2項目以上に異常があった場合にメタボと診断される。
しかしながら、この「閾値」が設定された後、腹囲の「閾値」の妥当性に対して、国内外の専門家の間から様々な疑問が投げかけられるようになった。
海外の専門家は、日本の腹囲の「閾値」について、男性の場合は厳しすぎ、女性の場合は甘すぎるのではないかと指摘している。
また、10年には、厚生労働省の研究班が、腹囲の数値からは心筋梗塞や脳梗塞発症の危険性を明確に判断することはできないとの調査結果を発表した。
厚生労働省の研究班は、全国12カ所の40~74歳の男女約3万1000人を対象に、腹囲と心筋梗塞や脳梗塞の発症の関連を調査した。その結果、腹囲の数値が高まるほど、発症のリスクは高まったが、特定の値を超えると、リスクが急激に高まるということはなかった。
つまり、腹囲の数値と脳梗塞や心筋梗塞発症のリスクは確かに正比例の関係にあることが観察されるが、腹囲の数値に明確な「閾値」が存在するわけではなく、計測値が閾値を超えることで、発症リスクが急激に高まるという現象は観察されなかったということだ。
メタボの基準値が妥当性を欠いていれば、医療費削減を目指して導入された「メタボ検診」によって逆に医療費が膨らんでしまうという本末転倒なことが起こる可能性もある。腹囲が「閾値」を超えている人たちは、相当な数に上ると言われ、この人たちが検診で医療機関での受診を勧められて、勧められた人全てが実際に医療機関で受診すれば、医療費は年間4兆円以上膨らむとの試算も出ている。
複数の調査によって、日本の腹囲の「閾値」の設定には明確な科学的根拠がないということが明らかになりつつあり、今後、男性85センチ以上、女性90センチ以上という基準は、見直しを迫られることになるのではないか。
※本文中のデータは、すべて、2010年の刊行時のものです。