「あなたの名前はジミーです」。戦勝国アメリカから赴任した英語教師、ヴァイニング夫人は、最初の授業で若きプリンスにそう告げた……。天皇家から絶大な信頼を得て、若き日の明仁上皇に多大な影響を与えた夫人。『ジミーと呼ばれた天皇陛下』は、夫人が遺した資料を手がかりに、明仁上皇の素顔に迫った渾身のノンフィクションだ。平成から令和へ、新たな時代が幕を開けた今だからこそ、改めて読んでみたい本書。その一部をご紹介します。
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ヴァイニング夫人の来日
昭和二十一年の十月二十一日である。
学習院中等科一年に在籍する明仁皇太子のクラスに、背の高いアメリカ人女性が現れた。
英語の授業を担当するエリザベス・グレイ・ヴァイニング夫人だった。
四十四歳のヴァイニング夫人は、つば広の黒い帽子をかぶり、地味なスーツ姿だったが、女優のイングリッド・バーグマンに似た美貌と、どこかおかし難い気品を備えていた。
皇太子とヴァイニング夫人はこの日が初対面ではなかった。十月十五日にアメリカの軍用船マリーン・ファルコン号で横浜に上陸した夫人は、二日後に皇居に参内し、すでに天皇、皇后、そして皇太子に会っていた。
皇太子の家庭教師であると同時に学習院でも夫人は授業を受け持つことになっていた。
その学習院は、かつては皇族や華族の子弟のための学校だったが、敗戦を迎えて後に私立学校となり、一般家庭の子弟にも門戸を開放していた。
中等科には、ヴァイニング夫人以外に女性の教師はいなかった。
まだ、戦争が終ってわずか一年と二カ月しか経過していなかったので、教室の雰囲気に落ち着きがないのは無理もなく、生徒たちは古い価値観と、新しい民主主義という概念の間で揺れていた。
学習院側では、ヴァイニング夫人が授業をする際に、日本人の教師を一人、教室の後ろに立たせて、生徒たちを静かにさせてはどうかと提案してきた。
「日本人の先生に、警官として見張っていて貰うのは、当を得た策とは思えなかった」ので、その提案を断ったとヴァイニング夫人は、後に『皇太子の窓』の中で書いている。
だが、夫人も学生時代に、フランス人やドイツ人の会話の教師を手こずらせた経験があった。
彼女の記憶によると、外国人教師は往々にして、生徒の名前をきちんと発音できない。それが子供たちの嘲笑の的となるのだった。
夫人は、ある奇策をねって、これに対抗することにした。
生徒全員に英語の名前をつけてしまおうと思ったのである。
それには三つのメリットがあった。第一に、生徒の名前を自分が間違って発音しないですむ。第二には、今まで生徒が使っていた英語の教科書では、子供の名前が、太郎や花子というふうにすべて日本名になっていた。だが、英語の名前の発音を教える必要もあった。
そうすることで、教室の雰囲気は、アメリカに少し近づくはずだった。
さらに、おそらくは、これが一番大きなヴァイニング夫人の目的だったと思われるのだが、皇太子にも英語の名前をつければ、一生に一度だけ、敬称で呼ばれず、特別扱いも受けないという経験を彼は持つことになる。それも悪くはないのではないかとも考えた。
そこで、夫人はアルファベット順に並べた生徒名簿を作り、皇太子の在籍する一年一組に乗り込んで行った。
生徒に「英語の名前」をつける
このとき、中等科一年には七十三名の生徒がいて、それが三つの組に分かれていた。一組は二十名だった。
さて、教室へ入って自己紹介した後に、夫人は右手の一番前に座っている生徒に名前を尋ねた。
相手は自分の名前を答えた。
「それはあなたの本当の名前です」といい、「しかし、このクラスではあなたの名前はアダムです」といった。
アルファベット順に始めたので、最初の生徒は「アダム」となったわけである。
なにしろ初めてのことなので、アダムと呼ばれた生徒はずいぶんとまどった。意味を了解するのにしばらく時間がかかった。
しかし、二番目にビリーと名づけられた生徒は、のみこみが早かった。三番目からは、自分の名前をつけてもらおうと勢い込んで生徒が立ち上がるようになった。
そうしているうちに、教室の真ん中に座っている皇太子に順番がまわってきた。
生徒たちはお互いに目配せをしあって、新任のアメリカ人女性教師がどうするか、固唾をのんで見守っていた。
「あなたの名前はジミーです」とヴァイニング夫人はいった。
「いいえ、私はプリンスです」と即座に皇太子は答えた。
「そうです、あなたはプリンス・アキヒトです」と夫人は同意してから言葉を続けた。
「それが、あなたの本当のお名前です。けれどもこのクラスでは英語の名前がつくことになっているのです。このクラスではあなたの名前はジミーです」
初めて皇太子が楽しそうに微笑した。そして、他の生徒たちもつられて笑った。
ヴァイニング夫人にとっては、まさにほっと肩の荷が下りた瞬間だったろう。
皇太子はなぜ自分はプリンスだと答えたのか。その点について夫人はこう推測している。おそらく皇太子は他の生徒にまじっているのを夫人が見分けられないためだと思ったのではないか。または、常に「皇太子」として育てられたので、自分を他の生徒と同列に考えるのが初めは不可能だったのかもしれない。
いずれにせよ、夫人のほうでは教室内で皇太子を特別扱いする気持は全くなかった。「ジミー」で通すつもりだったのである。
長い日本の歴史の中でも、将来天皇となるはずの皇太子が、アメリカ人の名前で呼ばれるなどというのは、まさに前代未聞のことだった。
しかし、このことこそが、如実に日本の敗戦を象徴していた。
日本はアメリカとの戦争に敗れたのである。
そしてかつての敵国アメリカから、皇太子の家庭教師が招聘された。当然、彼女はアメリカ式の教育を実践しようとした。
その第一歩が、アメリカ式の名前で皇太子を呼ぶことだったのである。