「あなたの名前はジミーです」。戦勝国アメリカから赴任した英語教師、ヴァイニング夫人は、最初の授業で若きプリンスにそう告げた……。天皇家から絶大な信頼を得て、若き日の明仁上皇に多大な影響を与えた夫人。『ジミーと呼ばれた天皇陛下』は、夫人が遺した資料を手がかりに、明仁上皇の素顔に迫った渾身のノンフィクションだ。平成から令和へ、新たな時代が幕を開けた今だからこそ、改めて読んでみたい本書。その一部をご紹介します。
* * *
対面の日、明仁親王は……
いよいよ、アメリカ人家庭教師が、その生徒である皇太子と対面したのは来日して二日後の十月十七日だった。
前例を破って、この会見には天皇、皇后も同席した。これは、いかに天皇がヴァイニング夫人に期待を寄せていたかを物語っている。
この前日、夫人は皇居でブライスと会った。ブライスはすでに皇太子に英語を教えていた。
そして皇太子が新任の家庭教師に会ったとき、どう挨拶するか、もう決めてあり、あなたが「御親切なお言葉をありがとうございます」と答えるだろうと皇太子にいってあると告げた。
それは「不自然な初対面になりそうだ」と夫人は思った。彼女にしてみれば、挨拶の言葉など決めずに、自由に話したかったのだ。
ところが、思いがけないことが起きた。
なんと、皇太子はブライスが教え込んだ堅苦しい挨拶などしなかったのである。十二歳の少年らしく「キャンディーをありがとう」と自然な言葉でいった。
ヴァイニング夫人はすっかり嬉しくなる。
このとき、夫人が天皇、皇后、そして皇太子をどのように観察したかは『皇太子の窓』の中に詳しい。
初めに皇太子についての描写がある。
丸顔で、真面目で、それでいて目もとにちらっとユーモアの見える愛らしい少年であった。殿下は、日本の学生が誰も着る紺の制服──長いズボンに、前に真田の縁取りのついた詰襟の上衣を着ておいでになり、襟のところには、学習院の徽章の、小さな金色の桜の花がついている。日本の普通の生徒と同じように、頭は坊主刈りであるが、短い黒い髪は光沢があり、でこぼこのない、格好のよい頭だった。
夫人が皇太子の頭の形に着目しているところが、なかなか面白い。おそらく日本に着いてみて坊主頭の子供が多く、なかにはひどく不体裁に見える頭もあったのだろう。それが夫人の心に強く印象づけられていたのだと思える。
次に天皇について夫人は筆を進める。
彼女が受けた第一印象は、はにかみやだが、感じの鋭い、しかし親しみのある方というものだった。
さらりと天皇の印象を述べた後で、皇后については、かなり丁寧にその姿を描写した。
天皇家との絆を深めた夫人
皇后は日本の古い版画に見るような、どちらかといえば面長の貴族的な顔をした美しい方だという。そして、魅力のあるにこやかな顔は相手の微笑を誘う。
皇后が身につけていたのは、日本の伝統的な着物ではなくて、宮中服だった。
宮中服とはもともと一反の布地で外出着を作るという皇后のアイディアを受けて、デザイナーが考案したもので、昭和十九年八月に制定された。戦争中なので、服装を簡略化しようという考えからで、宮廷服とも呼ばれた。上着は和服のようだが、下は袴ともスカートともつかぬ形で、たしかに便利で経済的だが、けっして恰好の良い服ではなかった。
戦後になっても、外出の際、皇后はこの質素に見える宮中服を着て出掛けた。それを、あまりにもセンスがないと酷評する週刊誌もあった。
もっともヴァイニング夫人の目には宮中服は特に奇異とは映らなかったらしく、批判的な言葉はない。
「ゆったりした、母親らしいお体つきの、四十二、三というお年齢よりはずっと若く見えるお方であった」という言葉で皇后の観察は終る。
全体で見ると、皇后についてのコメントが一番多く、続いて皇太子、そして天皇である。これは、その後の夫人と天皇一家との親しさを語る意味で、順番にその割合が分けられているようにも思える。
夫人は皇后と最も親しくなり、次に皇太子、そして天皇だった。
それは入江相政の日記からもうかがい知ることができる。この会見について、「非常に御工合もよく皇后宮が終始非常によくお話を遊ばされたとの事」と十月十七日に書かれている。
皇后はひと目でヴァイニング夫人を気に入り、二人の間にはやがて友情に近い感情が芽生えるようになる。
また、皇后はヴァイニング夫人に内親王たちの教育もお願いしたいといった。しかも、それは英語だけではなく他のことも教えてもらいたい、「経験の少ない者たちなものだから」というのが、その理由だった。
天皇も皇后も、ヴァイニング夫人に対してかなりの期待を寄せていたことが、もうこの最初の会見からもじゅうぶんに伝わってくる。
「あなたのような知識と理解力にすぐれたアメリカの婦人が教えに来て下さったことは、子供にとって光栄です」とまで天皇はいっているのである。
それだけにヴァイニング夫人の責任も重かった。