「あなたの名前はジミーです」。戦勝国アメリカから赴任した英語教師、ヴァイニング夫人は、最初の授業で若きプリンスにそう告げた……。天皇家から絶大な信頼を得て、若き日の明仁上皇に多大な影響を与えた夫人。『ジミーと呼ばれた天皇陛下』は、夫人が遺した資料を手がかりに、明仁上皇の素顔に迫った渾身のノンフィクションだ。平成から令和へ、新たな時代が幕を開けた今だからこそ、改めて読んでみたい本書。その一部をご紹介します。
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マッカーサーとの初対面
もちろん、元帥が興味を覚えていたのは、夫人だけではない。その教え子である皇太子には、あるいはもっと強い関心を抱いていたかもしれない。
なぜなら、マッカーサーは天皇の人柄を高く評価し、「どこの国であっても血筋だけは争えない」と夫人にもらしている。
その血筋を継ぐ少年を、自分の目で見てみたいとマッカーサーが考えるのは自然だった。
ヴァイニング夫人に元帥はこう語った。
「天皇は日本のことは何でもお話しになるが、ご子息のこととなると一度も口にされたことがない」
それは暗に天皇と皇太子の親子関係を尋ねる言葉だった。
夫人は、いかに親子に深い情愛のつながりがあるか、そして、父宮への賛辞を耳にするとき、皇太子が嬉しさいっぱいの表情を浮かべることなどを話した。
昭和二十四年の四月には、皇太子の写真を数枚持って、元帥を訪ねた。
すると、もしも皇太子が自分と面談できる程度に英語が話せるのなら、ぜひ会ってみたいとマッカーサーがいい出した。
しかも、このとき、たいがいは傲慢にさえ見え、高圧的な態度にも出るマッカーサーが、驚くほどの気配りをみせた。
「殿下にくつろいだ気持になっていただくために、あなたの他は誰にも同席させないことにしましょう。殿下が私と会ってももう大丈夫とあなたが思うときまで、私は待つつもりですから、そのときが来たら殿下をお連れになって下さい」
さっそくこの案を実現させようとヴァイニング夫人は動く。まず、宮内庁に切り出してみると、とりたてて異議はなかった。その時期については彼女に一任された。
そして二カ月後の六月二十七日に、皇太子とマッカーサーの会見が実現した。
宮内庁長官より事前に報告を受けていた天皇は、皇太子がマッカーサーを訪問するのはよいが、事後になるまでこのことは一般に公表しないようにという条件をつけた。
もちろん、夫人に異存はなかった。
当日は、護衛が一人、運転手の傍の席に座り、あとは皇太子とその家庭教師の二人だけで、元帥の執務室へと向かった。
夫人はいつもより緊張していた。皇太子は、彼女の教え子である。自分の教育の成果を最高司令官に見せるのであるから、教師としては「固唾をのむ思い」でも当り前だった。
堂々たる振る舞いだった明仁親王
しかし、当の皇太子は全くあがっている様子もなく、ゆったりと落ち着いて会見にのぞんだ。
夫人は会話にはあまり加わらず、皇太子とマッカーサーの間で学校の話やスポーツの話が交わされた。
終始一貫して、皇太子は自然な態度でふるまい、わからない英語は正直にそういった。
相手の眼をまともに見詰めて、自分の知っている言葉を巧みに使った。
家庭教師として、ヴァイニング夫人は至福の時間を味わった。自分の期待に、彼女の生徒はしっかりと応えてくれたからである。
「殿下は明らかに、いざという場合にその本領を最もよく発揮することのできる少数の人間の一人であって、危局にのぞんで崩れさるような不幸な人間の仲間ではなかった」との確信を彼女は抱く。
二十分ほどで会見は終り、皇太子はキャンディーをお土産にもらって帰った。
夫人は満足だったが、もっと満足したのはマッカーサー本人だった。
なにしろ日本の皇太子が、ついこの間まで敵国だったアメリカの言語を、かなりのレベルで話し、しかもそのマナーは完璧である。これ以上、はっきりとした占領政策の成功を示す例はなかなかないだろう。
帰宅したヴァイニング夫人のところへ、すぐにマッカーサーの側近から電話があった。
「殿下は物の見事に元帥の試験にパスされたようです。元帥は部屋から出て来るとすぐ、殿下から実によい印象を受けた、殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった、と言っていましたよ」
皇太子が元帥の試験にパスしたとは、いったい何を意味していたのだろう。皇室の次の世代をになう若者が、その資質を備えているのかどうか、マッカーサーは気にしていたようだ。それは、天皇制存続を支持することとも密接に関係していた。
皇太子なら、立派な人格を備えた成人になるという確信をマッカーサーに与えたという意味で、試験はパスだったといえる。
ヴァイニング夫人も、この会見をマッカーサーにとってのみならず、皇太子にとっても「人間的成熟への途上の一里塚だった」と位置づけている。
皇太子は会見の成功を自覚し、自信を持つようになり、自分から進んで行動するようになったと夫人はいう。