「あなたの名前はジミーです」。戦勝国アメリカから赴任した英語教師、ヴァイニング夫人は、最初の授業で若きプリンスにそう告げた……。天皇家から絶大な信頼を得て、若き日の明仁上皇に多大な影響を与えた夫人。『ジミーと呼ばれた天皇陛下』は、夫人が遺した資料を手がかりに、明仁上皇の素顔に迫った渾身のノンフィクションだ。平成から令和へ、新たな時代が幕を開けた今だからこそ、改めて読んでみたい本書。その一部をご紹介します。
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米国、欧州をめぐる長旅へ
ヴァイニング夫人の帰国が本決まりとなったころから、皇太子の留学問題も持ちあがり、関係者の間で真剣に討議されていたのがわかる。
ところが、アメリカの本省は、皇太子受け入れにあまり積極的な姿勢を見せていない。むしろイギリス留学を勧めている。
いずれにしろ、アメリカ留学もイギリス留学も実現はしなかった。
当時はアメリカもイギリスも、けっして対日感情が良好だったとはいえないので、そのへんが影響していたのかもしれない。
そのかわりといっては変だが、皇太子は六カ月余りの長旅へと出発したのだった。
出航の日は、船内のサロンに吉田総理大臣をはじめ閣僚、衆参両院議長、最高裁判所長官、そして訪問予定の国の大使たちが集まり、旅の安全を祈念して乾杯をした。
沿道や岸壁には多くの見送りの人が詰めかけ、歓呼の声をあげ、手旗をうち振った。さらに、海上警備隊のフリゲート艦が港外まで見送りに出るというにぎにぎしい鹿島立ちとなった。
入江相政のこの日の日記には、天気は晴朗で、「両陛下は三時から横浜御出航の御模様をテレヴイでよく御覧になつた由」とある。
これは、すでに日本でもテレビの実験放送が始まっていて、二月一日からNHKが本放送を開始した。そして皇太子の出発を初の実況中継で放映したためだった。
占領も終り、講和条約も結ばれ、学習院大学へ進学した皇太子が外遊に向かう。それがテレビでお茶の間に伝えられる。まさに新時代の到来を予感させる瞬間だった。
皇太子の旅程は、横浜から海路サンフランシスコへ行き、それからカナダを経由してニューヨークに寄り、ふたたび海路でイギリスへ渡り、戴冠式後にヨーロッパ諸国を訪問し、その後空路北米にもどり、約一カ月アメリカに滞在し、十月十二日の帰国予定となっていた。
このときの首席随員は侍従長三谷隆信で、後にこの旅の詳しい経過を『回顧録 侍従長の昭和史』の中で記している。
横浜を出航した船内でも、皇太子は外国人客とすっかりうちとけてピンポンに興じたりして楽しんでいるふうだった。
戴冠式のときの席は、右側の第一列で、ソ連、ネパール、日本、サウジアラビア、イラクの順だった。
また、最後に帰る際にお別れの挨拶のため、バッキンガム宮殿に参殿したが、そのときは、ギリシア、スウェーデン、ベルギー、オランダ、フランス、アメリカ、ラオス、ネパール、ヴェトナム、日本の順に諸国代表者が並んだという。
ヨーロッパの王室の順位や、日本の国際社会における認知度などを考えると、興味深い配列である。
ただし、皇太子はエリザベス女王に謁見するため一週間以上も待たされたり、戦争捕虜協会や労働組合の激しい抗議のため取りやめとなった行事もいくつかあった。戦後八年足らずという時代の悲哀であろう。
「自分は天皇になる」と言った明仁親王
しかし、不思議なことにアメリカでは、皇太子の訪問に対する抗議行動もなく、各地で温かく迎えられた。
ヴァイニング夫人とは、まず往路にニューヨークで会って、「ホテル・ピエール」で朝食を共にした。
また帰途は、フィラデルフィアでヴァイニング夫人の家に三日間滞在した。
かつては自分の手にゆだねられていた少年が、成年式も終え、大人の青年として目の前に現れたのである。
ヴァイニング夫人はまさに感慨無量だった。
まだ中学生のころ、授業中に将来自分は何になりたいかを一人一人の生徒に尋ねたことがあった。
それぞれが思い思いの職業をあげる中で、皇太子だけが、「自分は天皇になる」と答えた。それを「I should be emperor」といったと記憶している同級生もいる。
そうだとすると「shall」よりも「should」はもう少し強い責任感を伴う響きだ。
いずれにせよ、天皇になる運命を誰よりもよく自覚していた少年は、いま天皇の名代としてアメリカの地を踏んだのだった。
すっかり成年らしくなった皇太子を自宅に迎え、でき得る限りの接待をした後、彼を送り出し、夫人はしみじみと悟る。「教師としてのわたしの務めは終った」と。
少年は成人され、世界の中で重要で独自なお立場におつきになられたが、本来のご性格は変わってはおられなかった。わたしがその少年の中に認めて愛した率直さや、正直、純真さ、ユーモア、人なつっこさはまだそこにあった。少年の中に見た期待は成人された青年の中に成就されていた。
『天皇とわたし』の中でこう書いた夫人はもうこのときが、自分の最愛の生徒との最後の別れになるかと思った。
実際には夫人はこの後も日本やアメリカで何度か皇太子と対面している。しかし、教師とその生徒という関係は、このときで完全に終りとなった。
皇太子は自立した成年として、しっかりとその歩を進めつつあった。もはやどんな家庭教師も彼は必要とはしていなかった。