「あなたの名前はジミーです」。戦勝国アメリカから赴任した英語教師、ヴァイニング夫人は、最初の授業で若きプリンスにそう告げた……。天皇家から絶大な信頼を得て、若き日の明仁上皇に多大な影響を与えた夫人。『ジミーと呼ばれた天皇陛下』は、夫人が遺した資料を手がかりに、明仁上皇の素顔に迫った渾身のノンフィクションだ。平成から令和へ、新たな時代が幕を開けた今だからこそ、改めて読んでみたい本書。その一部をご紹介します。
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美智子妃との出会い
そもそも皇太子妃とは、いったい誰が決めるものだったのだろう。
昭和天皇の場合は、明治天皇の后だった昭憲皇太后が、まだ幼い久邇宮良子女王を一目見て、すっかり気に入ったからだという話が伝えられている。
しかし、後に大正天皇の后である貞明皇后が、これに反対し、結婚までにはさまざまな曲折があったことは、あまりにもよく知られている史実である。
戦後になって、皇太子のお妃を皇族や華族から選ばなければならないという皇室典範は廃止された。
だからといって、皇太子が自分で配偶者を選ぶということがあり得るだろうか。
誰もが、それは予想していなかった。
皇太子妃、つまり未来の皇后は、宮内庁をはじめとする関係者が相談し、しかるべき女性を選出するものだと思われていた。
そして、そのお妃選びは、昭和三十二年の夏、完全に暗礁に乗り上げていた。
ある時期、その候補者の数は八百人にものぼったという。
旧皇族、元華族の五摂家、堂上華族(華族のうち、もと公家の家系の人々)、徳川宗家、徳川三家、徳川三卿、元大大名、元侯爵、元伯爵と順番に広げていって、適齢期の女性がいる家を探した。
それでも適任者は現れなかった。有力視されていた北白川肇子が外れたことはすでに述べた。
皇太子自身が、真剣な表情で、「どこもダメだ。一生結婚できないかもしれない」とまでいったという。
もしこれが本当だとしたら、二十三歳の皇太子は真剣に結婚を考えていたことになる。
そして、皇太子が将来のお妃と運命の出逢いをしたのは、八月十九日のことだった。
旧軽井沢のテニスコートで、皇太子は早大生石塚研二とペアを組み、対戦相手は正田美智子と、アメリカ人の十三歳の少年だった。
このとき、思いがけなく皇太子の組が負けてしまった。そして、自分を破った相手が日清製粉の社長、正田英三郎の令嬢であると後に皇太子は知る。
テニスを通じて、二人の交際はゆるやかに、少しずつ進行していった。
そのころ、宮内庁では、聖心女子大、日本女子大、東京女子大、お茶の水女子大などへ、妃殿下にふさわしい女性の推薦を内密に依頼していた。聖心からのリストのトップに挙げられていたのが正田美智子だった。
成績、人柄、家庭環境すべての面で最もふさわしいと思われたが、さらに、皇太子の胸にしっかりとその面影を焼きつけずにはおかないほどの美貌の持ち主であった。
だが、正田家は、いわゆる旧華族や皇族ではないので、最終的にはリストから外されていた。
ところが、昭和三十三年になって、選考の範囲を民間の良家の子女にまで広げることとなった。そのときに皇太子自身が、正田美智子を候補者に加えて欲しいといったという。
「窓」が大きく開け放たれた
その年の夏、宮内庁は皇太子妃の第一候補を正田美智子と決定して、八月に軽井沢の正田家の別荘を小泉信三が訪ねた。
初めは、正田家は家柄が違うといって、この申し出を固辞した。
当時、正田家の令嬢には、幾つかの縁談があり、最も熱心だったのは、ある外交官の青年だったという噂もある。
また、作家の三島由紀夫との見合の話も出ていたと巷間伝えられている。
いずれにしても、九月三日、美智子は、ブリュッセルで開かれる聖心女子大の同窓生学生会議に出席するため、あわただしく日本を後にした。
五十四日間にわたるヨーロッパやアメリカへの旅を終えた後の結論は、やはり「ノー」であった。
しかし、ここで皇太子が自ら行動を起こした。直接に彼女に電話をかけ、自分にはそんな能力はないのだと訴える相手を、必死になって説得した。
この際、皇太子が「柳行李ひとつで来てください」といったという噂話が、まことしやかに伝えられていたが、最近になって、自らきっぱりと否定された。
ともあれ、熱心な皇太子の求婚が、ついに最後には受け入れられ、昭和三十三年十一月十三日、正田家は受諾の返事をする。
婚約が内定したときに、皇太子は次のような歌を詠んだ。
語らひを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓
この窓とは、あのヴァイニング夫人が『皇太子の窓』の中で綴っていたものではなかったろうか。
日本そのものの上に、そしてお濠の内側の、古いいかめしい世界の上にも、たくさんの窓が開かれるはずだと夫人は書いた。「窓というものからは、必ず光がさしこんで来る。そして光はよいものだと私は思うのであった」という文章で、夫人は同書を閉じている。
昭和二十八年に翻訳書が日本でも出版され、当然、皇太子も目を通していたことだろう。
ヴァイニング夫人の望んだ皇太子の窓が、大きく見事に開け放たれたというメッセージをこの歌は伝えているような気がする。
昭和三十四年四月十日、皇太子と美智子妃の結婚式は行なわれた。式後のパレードで、馬車の上から手を振る二人の晴れやかな姿は、長く日本人の瞼に焼きついて残った。
そして、この結婚式には、ヴァイニング夫人も招待され来日している。
「美しくて若くて、聡明で気品があり、温かくてチャーミングで、気高さと内に秘めた力強さと、殿下が花嫁の条件の一つにあげておられたユーモアのセンスを備えられた正田美智子さん」と夫人は美智子妃を手放しで絶賛している。
それはまさに、日本人全体の思いでもあり、人々は完璧といってもよい妃殿下の登場に熱狂した。