美しい四姉妹には、いやらしく哀しい秘密がある。
花房観音が描く、現代版『細雪』!
第一章 春樹
痛みは快楽の香辛料だということを、どこまで自覚しているのだろうか。
自分の上で若さを見せつけようとばかりに小刻みに腰を動かすこの男は。
初めて寝た時、果てた後に「旦那さんに悪いよ」という言葉を三度も口に出し、そのくせ三日もしないうちにまた会おうと自分を誘ってきたこの男は、罪悪感や背徳感という痛みを伴う関係にとり込まれていることを、どこまでわかっていながら私を抱いているのだろうか。
春樹は薄目を開けて男の顔を眺めながら、見えるはずのない男の心のうちを探ろうとする。
本当は、わかっている。この男は、そんなに賢くない。
欲求不満の年上の人妻が自分と寝たがっているから、応えている、それだけだ。
やりたがってる女がいて、後腐れがなさそうだから、自分の欲望の白い液体を流し込んでいるだけだ。
それでいい。セックスに理由や理屈をつけるのは、女だけで十分だ。あれこれ考えてセックスする男なんて、女以上にめんどくさい。男は女に応えるだけでいい。女の道具になってくれればいい。
男は何も知らずとも、私はとっくの昔にその味を覚えている。痛みという香辛料に味付けされた関係の美味さも、そのことがもたらす危険も。
だから何度もそこから逃れようと、してきたはずなのに。
その甘美な毒を振り払うことができず、いつも快楽に巻き込まれ、自分の意志の弱さを思い知るばかりだ。
寝たあとにこみあげる胸が締めつけられる種類の感情に苛まれるたびに、こんなことやめようと誓うのに。
まるで私は、自分を切り刻むためにセックスをしているかのようだ。
男の息が荒くなる。身体の芯からひりだされる自分の声も獣のように激しくなっている。
「もう……出そうだ……」
男が春樹の耳元で、今にも死にそうな声を出した。
「……大丈夫だから……中に……」
興をそがないように、細い声で春樹は男に意思を伝えた。
わかったという言葉の代わりに、男は腰を打ちつけるように激しく動かし、行為の終結を告げる雄叫びをあげた。
「旦那さんに、悪いな」
男はまた、口にした。けれどその言葉が当初より、心を伴っていないことに春樹は気づいている。
その言葉を発することにより、己の罪悪感を軽くしようとしているにすぎないことも。
「お互い様やん。私かて、金子くんの彼女、会ったことあるんやから」
もともとが大きな目を、睫毛や化粧のデコレーションで二倍ほどにした自分より十歳以上若い女の顔を春樹は思い出そうとする。
美人だった、はずだ。
けれど、今どきの娘の化粧というのは誰もがよく似ていて、はっきりとは思い出せない。目が大きかったということと、にっと笑った時に歯茎が見えたことと、剥き出しにした歯に口紅がついていて、汚らしく感じたことぐらいしか印象にない。
今どきの美人の基準は目が大きいことなのだろうか。だから皆、目に過剰な化粧を施すのか。
けれど所詮、化粧など飾りにすぎず、自分の母のような、大きいというよりは黒目がちな丸い目と、伏せた時に影をつくるほどの長いまっすぐな睫毛、憂いを感じさせる涙袋──生まれながらの「印象的な瞳」には敵わない。
金子の彼女のような女が必死に目を飾りつけても、自分の母の前に出たら、その違いは一目瞭然だ。
私はその母のような瞳を全く受け継がず、切れ長の狐のような目を持って生まれてきてしまった。
大きな瞳が美人の基準ならば、自分は全くもってそこから外れている。
それでも若い頃は、金子の彼女のように目に過剰な化粧をほどこしてみようとしたこともあったのだが、母に追いつこうと必死なように思えて、馬鹿らしくてやめてしまった。
どう努力したって、母のような顔にはなれないのだから。
それに、春樹と寝た男たちが、この切れ長の目が色っぽいと賞賛してくれるおかげで、この年になると多少、コンプレックスは薄らいでいる。結局のところ自分が男と寝るのは、こうした内面の欠如を他人によって補おうとしているからかもしれない。
金子の彼女と会ったのは職場の飲み会の二次会だった。近くで飲んでいるからと、店に訪れた。
「すいません、お邪魔しちゃって」と謙虚さを装いながら、誰もが自分の来訪を歓迎していると確信を持っているような態度だったが、男たちは媚びるのが上手い若い女にまんまとはめられていた。堅い職場だからこそ、そこにそぐわない女が男たちは好きだった。
当時は、金子とはこんな関係になっていなかったから、春樹も皆と口をそろえて、可愛い彼女ねと愛想を言ってみたりもした。若い娘の容姿をほめることで余裕を見せようとするのは本心ではなくて、他人にどう見られるかを気にしてのことだ。
金子は四十歳の春樹より八つ下の三十二歳だ。その恋人は二十九歳で、春樹の一番下の妹の冬香と同い年か。
冬香なら、どう思うだろう。自分の恋人が、自分より十歳以上も上の女とこっそり寝ていると知ったら。しかも、夫のいる女だ。
姉妹がいると、出会う女たちの年齢を知った時、どうしても妹たちを反映させてしまう。
女は自分の男に浮気された時に、相手が若い女ならば、「やはり男は若い女が好きなのか」と、自分よりも年上ならば「年上の手練手管にひっかかった」とそれぞれに理由をこしらえ、自分の心を守る。
けれど本当は年齢なんて関係ないことは、この年になるとわかる。
少なくとも、自分にとって、快楽を得るための男を選択する時に無意識に働いているのは、罪悪感や背徳感などの、痛みだ。
「あいつ、勝手に自分の親に俺を会わせようなんて画策しやがってさ、この前、大げんかだよ。俺はまだ結婚したくないって言ってるのに、じゃあ私のこと嫌いなのとか、そういう問題じゃないんだよな」
金子と恋人は三年の交際になるという。恋人は今すぐにでも結婚したがっているのに金子はのらりくらりと逃げている。
どうして結婚したくないのかと問うと、
「責任を伴うことが、怖いんだよ」
と、自嘲気味な笑いをみせられた。
自信のなさを取り繕うために強がってみせる男にありがちな、あまり愉快ではない表情だった。
金子の無責任さは仕事ぶりを見ていてもわかる。
金子は春樹の勤める財団法人の同僚だ。春樹のほうが年上だが、勤続年数は金子のほうが長い。
十五人ほどの職員で、トップは天下りの老人なので、のんびりとした退屈な職場だった。
それでも何か企画を持って自ら動こうとしている人間はいる。春樹もそのタイプだったが、金子は目の前にある仕事をこなせばそれでいいという主義のようだった。
春樹からしたら、覇気がないようにも見えるのだが、自分と正反対であるせいか警戒心がなく、最初から話しやすかった。
京都大学卒で上級公務員だったエリートの春樹を、最初から恐れや警戒心を浮かべた目で見る男は多い。
背が高く、細身の身体に張りついた質の良いスーツを着て、金子に言わせると「いかにもエリートの女っぽく隙がない、しかもそこそこ美人」な自分は、最初から遠巻きに見られていたように思えたのは気のせいではない。
役所勤めから財団法人へ転職した理由は、職場の人間たちにも知れ渡っているようだった。金子と親しくなってから、「狭い業界だからね」と、哀れみをこめて言われた。
本当に狭い世界だ、この京都という街は。
自分のように生まれてこの方京都から離れたことのない人間ですら、それを痛感する。
職場で上司と不倫して、略奪結婚した。
春樹は、生まれてはじめて、「恋の勝者」になったのだが、その代償として役所という職場を追われた。
特に辞めろと言われたわけではないのだが、学生時代からの妻と子供ふたりの「父親」を奪った女への風当たりは強かった。
何よりも夫となった男がやりにくいだろうと、退職を決意して、異動も断った。
春樹は妻のいる男、他に女のいる男とばかり恋愛して、気づけば独身のまま四十路に入ろうとしていた。自分は一生、このままなのかと諦めかけていたところ、突然男が「妻と別れるから一緒になろう」と言いだし、その波に乗って、初めて「妻」という立場になることができた。
お日様の下で堂々と手をつないで歩ける関係をようやく手に入れることができたのに。
なのに、どうして、私は。
春樹は目の前の、裸の腰にタオルを置いたまま煙草を吸う金子の姿を眺める。
匂いが移ってしまうから、実家に寄る前に、服に煙草の匂い消しを振りかけなければいけない。妹たちに気づかれてはいけない。特に、次女の美夏には。
良妻賢母の鑑のような美夏に、夫のいる女が若い男と寝ているなんて知られたら、軽蔑どころじゃすまされない。
呆れられても、怒られても、軽蔑されても、痛みという香辛料がないと、私は快楽を得ることができないのか。
やっと妻という立場になれたのに、夫以外の男とこうして寝てしまう自分は、死ねば地獄に落ちるだろう。
本記事は『偽りの森』(花房観音 著)の「第一章 春樹」の冒頭を掲載した試し読みページです。続きは『偽りの森』をご覧下さい。
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