NHK大河ドラマ『真田丸』でも注目を浴びた伝説の戦国武将、真田幸村。大阪夏の陣で宿敵・徳川家康を追いつめ、見事に散った幸村は庶民のヒーロー的存在となり、のちに「真田十勇士」という架空の物語まで生まれました。『真田幸村と十勇士』は、幸村の波乱万丈の人生と、十勇士の誕生に迫った一冊。なぜ幸村は、これほどまでに日本人に愛されるのか? 特別にその一部をご紹介しましょう。
* * *
大坂に到着した幸村は……
九度山村を脱出した幸村は、数日後に大坂に到着した。大坂ではまず、豊臣家を淀殿とともに仕切っている大野治長の屋敷を訪ねている。
『武林雑話』によれば、このときの幸村は他人の目をあざむくためか、剃髪して山伏の姿となり、伝心月叟と名乗っていた。妙な山伏があらわれたものだから、大野屋敷の門番はいぶかしみ、「どこから参られた」と尋ねた。
幸村はわざと正体を明かさずに、
「大峯のあたりの山伏でございますが、ご祈禱の巻数を差し上げたいと思い、殿様にお目通りをお願い申し上げます」
といった。門番は胡乱なやつと思ったが、むげに追い払うのも気が引けたので、
「殿はご登城してお留守だ。こちらでご帰宅まで待って、お目通りなされ」
と、番所の脇に幸村を連れていき、立ち去った。
幸村が仕方なくそこで待っていると、近くにいた大野家の若侍十人ばかりが刀の目利きの話を始めた。そのうちに若侍の一人が幸村も腰に刀を帯びているのに気づき、「和僧の刀も見せられよ」と話しかけてきた。
幸村はやれやれと思いながら、
「山伏の刀は犬おどしのためなので、お目にかけるようなものではありませんが、おなぐさみにでもなれば」
と腰の刀を差し出した。それを若侍が鞘から抜いてみると、刃の匂いや光り具合がなんともいえない。「さてさて見事なもの」と絶賛するばかりだった。
驚いたほかの者が、「山伏はよい刀を持っておられるな。脇差のほうも見せられよ」といって、同じように抜いてみたが、やはり見事な出来で言葉を失うほどだった。
これは名のある刀に違いないと思った一同は、中子(刀身の柄のなかに入った部分)を見せてほしいといって、柄をはずして銘を確認したところ、刀には正宗、脇差には貞宗と刻銘されていた。
相州正宗、及び養子の貞宗は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した刀工で、その作品は名刀として知られている。そんな高級な刀剣を山伏ふぜいが持っていたのだから、若侍たちは驚き、「ただ者ではないな」と警戒した。
妖刀村正に込められた幸村の思い
そうこうしているうちに主人の治長が大坂城から帰ってきたので、山伏姿の幸村は玄関に通された。幸村の顔を見知っていた治長は、変装していてもそれが幸村であることにすぐに気づき、「これはこれは」と深々と頭を下げた。
「お越しになるだろうとは聞いていましたが、早々とおいでいただき、これ以上うれしいことはございません。さっそく秀頼様のお耳に入れましょう」
治長はそういって大坂城の秀頼に使いを送り、幸村に酒肴を出して手厚くもてなした。そのうちに城から速水守久が使者としてやってきて、幸村が遠方からはせ参じたことに秀頼も大いに満足していると伝えた。
大野家の若侍たちは、こうしたやりとりを見て、ようやく山伏の正体が名高い真田幸村であることを知り啞然とするのだった。
後日、彼らと顔を合わせる機会があり、幸村は冗談めかしてこういった。
「刀の目利きは上達したかな」
いわれた若侍たちは、恥ずかしくて赤面するばかりだったという。
ところで、幸村がこのとき帯びていたのは正宗と貞宗だったが、ほかに村正の刀を持っていたという話がある。村正は徳川に仇をなす妖刀といわれており、徳川打倒をめざす幸村がそれにあやかって、いつも帯びていたというのだ。
このことをのちの水戸藩主・黄門こと徳川光圀が、
「幸村は家康公に敵対し、常に村正の刀を帯びていた。村正は徳川家にとって不吉の刀であるゆえ、呪い殺そうとしていたのだと聞く。このように普段から心を尽くしてこそ、まことの武士というべきである」
と称賛した話が伝わっている(『名将言行録』)。村正を持っていたのが本当かどうかはわからないが、水戸黄門がそう信じているほどなのだから、それなりに信憑性のある話であったに違いない。