人生最後に何を食べますか?
大阪市東淀川区の淀川キリスト教病院が取り組む「リクエスト食」を取材した書籍『人生最後のご馳走』(19日発売)が話題です。単行本が刊行されたのは2015年のこと。今年に入ってNHKラジオ「すっぴん」で高橋源一郎さんが紹介するなどで反響を呼び、緊急文庫化された本書から試し読みです。
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雑誌の編集をしていた頃、街のややこしさやふくよかさ、心にしみるような皿やそれを生み出す料理人など、「よく生きる」ための多くを教えてくれた大先輩がいた。直接的な仕事の先輩ではないが時折街に連れ出してくれて、飲むのも食べるのも豪快に楽しまれ、そんな喜びを誰かと共有したくて仕方がないという姿を見せてくれた。いつも蝶ネクタイがトレードマークとなる洒落た装いで、過剰なまでのサービス精神とウィットにあふれた人だった。
数年前から、その先輩がお酒を飲む姿を目にすることがなくなり、お会いする度に迫力のあった大柄な体が少しずつほっそりして見えるようになった。ほどなくがんに冒された肝臓の一部を切除したことも知った。そのときの手術は成功し、肝臓がんは克服したのだが、その後もがんはしつこく先輩の体のあちこちに出没する。完治は厳しいと通告されていたが、まだやらなきゃいけないことがあるからと、先輩は体力の限界までがんと戦い抜いて、他界した。
亡くなる半月ほど前のこと。深刻な状況だと家族の方から知らされて見舞いに行った知人から、ある洋食店のコンソメスープを先輩が飲みたがっているという話を耳にした。
飲食店のコンサルティング業で活躍した先輩が、50年ほど前に学校を卒業して初めて勤めたのは、今は大阪の北新地に店を構えている昭和3年創業の老舗の洋食店の厨房だった。その洋食店には「ダブルコンソメ」と呼ばれる深い味わいを持つコンソメスープがある。先輩がそのスープを飲みたがっているというのだ。
魔法瓶を抱えてお店に赴き事情を話すと、ぱりっとした黒いジャケット姿の支配人らしき方は頷いて、私をテーブル席の椅子に掛けさせると、魔法瓶を持って厨房へ消えて行った。しばらく経って戻ってきた手には、熱々のスープが入った魔法瓶。そして、その方がお口にできるのかわかりませんがもし良かったら、と可愛らしい小さなお菓子まで持たせてくれた。
その足で病院に駆けつけると、ちょっと驚いて迎えてくれた先輩は、すっかりとそぎ落とされた頬や筋の立った首元から、ほとんど食事がとれていないことが一目で推測できた。そんな状態の人にどうなんだろうと躊躇しつつも、お好きなスープだと聞いたので食事のときにでもどうぞ、と魔法瓶を渡すと、ぱっと目を輝かせて今すぐ飲みたいと言う。そして、悪いけれど白い皿を借りてきて欲しい。その間に、眺めの良い来客スペースに移動するから。このダブルコンソメには、魔法瓶の蓋を皿代わりにするような無粋なことも、気の滅入る殺風景な病室も似合わないのだと。
看護師さんに相談すると、スープ皿とまではいかないが、浅めの白いサラダボウルを借りることができた。そこにダブルコンソメを注ぐと、見たこともないような濃く深い琥珀色の澄み切ったスープが白い器に浮かび、濃厚な肉の風味と得も言われぬ香りがふわりと広がった。匂いだけでお腹が空いてきた私は、思わず喉を鳴らした。
「ああ、アラスカのダブルコンソメやなあ」
先輩は低く唸うなり、まぶたを閉じて香りを堪能するように大きく息を吸い込んでから、ほんの少しスプーンですくったスープを唇にそっとつけて、それを舐めた。
「うまいなあ。うまいなあ。ありがとう」
私の目をのぞきこむようにぐっと見てにっこり笑い、再び目を閉じて何かを思い出しているようだった。
後からゆっくり飲ませてもらうからと、大切そうに魔法瓶を自分の側に置くと、この洋食店アラスカのコンソメスープがどれほど手間暇かけて作られるのかということから始まって、若かりし頃の先輩が厨房で怒られた話、早い時期に本物と言われる人や物や料理に触れることが後の人生にどれほど影響するかなど、元気だった頃と同じような声量とはいかないが、それでも変わらぬ名調子で教えてくれた。
この人が、本当に命が深刻な状況なのだろうか。まだまだ元気に頑張られるのではないだろうか。私はそんなふうに少し嬉しい気持ちになっていた。
だが、そのときはすでにいつ最期を迎えても不思議ではなく、抗がん剤と強い痛み止めによる副作用で、とうてい口から食べものを摂取できる状態ではなかったと後から人に聞いた。その後、見舞いに来た客にダブルコンソメを飲んだのだと嬉しそうに話されていたことも。
先輩の顔を見たのはその日が最後で、私の中にはコンソメスープを飲んだときの「うまいなあ。ありがとう」の声と相好を崩した姿がいつまでも残っている。病院であっても食事のスタイルにこだわる気概は、先輩の美意識や、大げさかもしれないが生き様にも通じる気がして、思い出す度に背筋が伸びるような心持ちがする。それは先輩が私にくれた最後の贈り物だった。