NHK大河ドラマ『真田丸』でも注目を浴びた伝説の戦国武将、真田幸村。大阪夏の陣で宿敵・徳川家康を追いつめ、見事に散った幸村は庶民のヒーロー的存在となり、のちに「真田十勇士」という架空の物語まで生まれました。『真田幸村と十勇士』は、幸村の波乱万丈の人生と、十勇士の誕生に迫った一冊。なぜ幸村は、これほどまでに日本人に愛されるのか? 特別にその一部をご紹介しましょう。
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叔父の説得にもかかわらず……
真田丸の戦いで大打撃を受けた家康は、豊臣方に幸村がいるかぎり苦戦はまぬがれないとみた。そこで、この幸村をなんとかして自軍に引き込むことができないかと考えたのだった。
そのための使者として選ばれたのが真田信尹、すなわち昌幸の弟で、幸村にとっては叔父にあたる人物である。
ちなみに、この大坂の陣には家康の配下として幸村の兄・信幸は参戦していない。病気と称して自分は出陣せず、代わりに子の信吉、信政を家康に従わせていた。もちろん病気というのは事実ではなく、弟・幸村と一戦をまじえたくなかった信幸の仮病であっただろう。
そして、ほかにもうひとり徳川方に加わっていた真田の者が信尹で、一族のなかで最も早くから徳川に仕えていた武将だった。これまでにも徳川と真田の間に立って交渉の仲介役になったことがあったから、今回もうってつけの役目ということができた。
十二月十一日、真田丸の幸村のもとを信尹が訪れた。挨拶もそこそこに信尹が切り出したのは、こういう話であったという。
「そのほうの軍略は抜群である。徳川に同心すれば信州のうち三万石を与えようとのことだが、どうか」
対する幸村の答えは、こうだった。
「私は、関ヶ原の役において家康公の敵となり、高野山に入ってなんとか命をつないでまいりました。それが、このたび秀頼公に召し出され、多くの兵と持ち場を与えられました。これは領地を与えられるよりもありがたいことです。ですから、約束を違えてそちらに味方することはできません」
幸村としては当然の返答だったろう。きっぱりと申し出を拒絶された信尹は、仕方なく家康のもとに帰ってそのことを報告した。
すでに死を覚悟していた幸村
すると家康は、
「まことに惜しい武人だ。もう一度行って、今度は信州一国を与えるから味方にならないかと尋ねて参れ」
といい、再び信尹を幸村のもとへ派遣した。
しかし、幸村の答えは変わることはなかった。
「信州一国はおろか、日本国中の半分をいただけるとしても、私の気持ちは変わりません。また、この戦は勝利を得られる戦ではありませんので、私ははじめから討ち死にを覚悟しています。もう二度とおいでになりませんように」
そういって、信尹を陣中から追い出した。信尹ももはや打つ手がなく、
「この上はいたしかたがない。これが今生の別れになろう」
といって、むなしく引き上げるしかなかった(『名将言行録』)。
叔父の気持ちはありがたかったが、もとより恩賞の多寡で動く幸村ではない。たとえ自分が損をしようとも、人としてなすべきことをなす。それが幸村という男なのであり、そのあたりを家康はまったくわかっていなかったのだ。
なお、『常山紀談』によれば、信尹が帰ったあと、幸村は身のまわりの世話をする小姓に向かって、こう語りかけている。
「たとえ天下に天下を添えてくだされようとも、秀頼様にそむくような不義はできない。ああ汗をかいた」
そういって、上半身の汗をぬぐわせた。そして、さっぱりとした首筋を示しながら、
「いずれこの首は家康の前に差し出すのだからな」
と、笑ったという。
真田丸の戦いで、いったんは徳川勢を退けることができた。しかし、豊臣方の内情を考えると、このあといつまで抵抗を続けることができるのか。そんな前途の多難さに、幸村は早々と覚悟を決めていたのかもしれなかった。