人生最後に何を食べますか?
大阪市東淀川区の淀川キリスト教病院が取り組む「リクエスト食」を取材した書籍『人生最後のご馳走』(19日発売)が話題です。単行本が刊行されたのは2015年のこと。今年に入ってNHKラジオ「すっぴん」で高橋源一郎さんが紹介するなどで反響を呼び、緊急文庫化された本書から試し読み第3回です。
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淀川キリスト教病院ホスピス・こどもホスピス病院では、金曜日の昼下がりになると、「リクエスト食」の聞き取りのために管理栄養士の大谷幸子さんが病室をたずねてまわる。
大谷さんはベッドサイドで患者さんに寄り添いながら、いま食べたいもの、味付けの好み、食べたい量などの要望に、ゆっくりと丁寧に耳を傾ける。せかすことなく、楽しい世間話をしにきたみたいな雰囲気で。
食べたい献立があふれ出す方もいれば、なかなか具体的に思い浮かばない方もいる。入院されている皆さんは、末期のがん患者という共通点こそあれど、一人ひとりの症状も体調も異なるし、「食」への思い入れも人それぞれだ。
ただ、ホスピスに来るまでに別の病院で抗がん治療を受けていた人がほとんどで、そこで食事制限を受けたり、投薬の副作用で食欲が落ちて「食べたくても食べられない」という経験は多くの方に共通している。
にもかかわらず、取材が進むにつれて、「再び食べられるようになった」という喜びの声を幾度となく耳にするようになった。
さまざまな要因が良い結果を結び、末期がん患者が再び「食」を取り戻したとき、決められた献立ではなく、自分で選んだメニューが食べられるとしたら?
よくテレビなどで「人生最後に何が食べたいか」といった企画を目にするが、ホスピスの入院患者にはその日そのときが文字どおり最後の食事になるかもしれない。どんな気持ちで何を選ぶのだろう。当初はまるで想像もつかなかった。
取材はそのメニューを選んだ理由から始まった。すると料理名だけではなく、食にまつわるエピソードが患者さんの口からあふれ出した。そこから浮かび上がるのは、それまで過ごしてきた日常の風景の断片でもあり、その風景には、ご本人だけではなく、食を共にした誰かが含まれる場合も多くあった。
そうした風景の奥には皆さんの生きてきた時間が広がっていて、自分がこれまでに何を食べてきたかには、私たちが思っているよりもっとさまざまな思い出がついているようだった。
人は食べないと生きていけない。
貧しさで3日に1度しか持たせてもらえなかったお弁当のおかずも、家族で賑やかに囲む豪勢なすき焼きも、味も素っ気もない病院食のお粥も、体に入れば結局は同じで、生きるために重ねてきた単なる何千分の一食でしかないのかもしれない。
でもやっぱり違う。食べることは栄養摂取の作業ではない。また、たとえどんなに質素なおかずであってもそこに思いの込められた食事は、その人にとって大切な時間で、それは「ご馳走」なのだ。14人の末期のがん患者の方々の話に耳を傾けるうちに、私はそう感じるようになった。
病院という場所は、治療のために実に効率良くシステム化されていて、患者はそのシステムに従うしかない。そのため、闘病というシチュエーションに置かれるがん患者は、いくつかにパターン化された環境に身を投じざるを得ない。一般の病棟で、まるで画一的なモノのように扱われて「自分」がなくなる気がしたという患者さんもいた。
でもこのホスピスで、皆さんが語る話から浮かび上がる人生の風景はまさに十人十色。一人ひとりの顔も声も性格も違うのと同じように、それまで生きてきた道は異なる。「リクエスト食」は、「がん患者」という漠然とした顔のない存在から、そんな自分らしさを取り戻すひとつのきっかけになっている気がした。
ホスピスの患者さんは当然ながら身体的に厳しい状況にはあるが、この病院でお会いした方は皆さん驚くほど明るく穏やかで、希望を持って毎日の生活を送られていたように感じている。
お喋りが好きで多くを語られる方、恥ずかしがって言葉の少ない方、何週もお会いできた方、限られた時間となった方。体力や気分によって、同じ患者さんでも話を聞ける時間や状況は日々異なった。また、ご本人より付き添いのご家族があれこれと教えてくださった方もいた。(中略)直接的な食にまつわるエピソードでない話も多い。そういう部分を端折ることもできたかもしれない。けれども、人がどう生きたかはほんとうにいろんなことが絡み合っていて、人生の一部をカテゴリーで分けたりすることはやっぱりできないと私は思う。生きることは食べること。食べることは生きること。きっとこれを読む皆さんもそうであるように(「はじめに」より)。