一昨日の深夜、サーバーのファームウェアの修復作業をしていた彼は、さようなら、のメール一通のみを残して去った妻のことにばかり気を取られ、おそらくは心のどこかで自暴自棄の思いもあったのだろう、作業中に机を蹴飛(けと)ばし、大声で何かを叫んだ。サーバーはさすがに重いため転がるようなことはなかったものの、隣に置いてあった棚が倒れ、サーバーのハードディスクが物理的に破損した。
あ、と横で共に作業をしていた二十七歳の後輩社員が動転のあまり、手を伸ばしたところ、たまたま手に持っていた缶コーヒーが零(こぼ)れ、直前にバックアップを取っていたはずのテープ媒体にかかった。見事なまでに濡(ぬ)れた。脇にあったマニュアルの上に缶を置いたため、丸く茶色の跡が残った。
妻に逃げられた先輩社員は、ただ泣きじゃくり、二十七歳の後輩社員は青褪(あおざ)め、二人ともしばらくは動けなかった。
ずいぶんしてから、二十七歳の後輩社員はどうにか正気を取り戻した。つまりそれが僕なのだけれど、僕は課長に電話をかけ、事の次第を説明した。別の社員を深夜の職場に呼び、対処をしてもらうことになった。
不幸中の幸いというべきか、金庫の中にしまってあったバックアップテープから、ほぼ九割方のデータは復旧できることが判明した。破損したサーバーは確かに修理が必要だったが、別の同機種がリースで借りられることも分かった。
「けどな」と言ったのは課長だった。「迷惑をかけたのは間違いないんだから、それなりに責任を取ってもらわないといけない。サーバーのメンテ中にコーヒーなんて、近くに置くなよ」
「置いてたんじゃなくて、持ってたんですよ」
「よけい、悪いよ」
というわけで僕には、定時後に残業代なしの、アンケート作業が命じられたのだった。
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