「じゃあ、ごくろうさん」アンケートに協力してくれた中年男性が立ち去っていく。
後ろ姿を眺めながら視線を動かす。空は薄い藍あい色いろだった。ずいぶん寒くなってきており、コートが必要だったが、僕にはコートがなかった。デッキの上をさまざまな人たちが行き交っている。勤め帰りの会社員が多い。制服を着た高校生らしき姿もちらほらある。
目の前を、黒の薄手のコートを着た女性が歩いてきたので、「お忙しいところすみません」と声をかけてみる。
「急いでいるので」女性は、僕の顔に一瞥(いちべつ)をくれたものの、すぐに通り過ぎた。僕は短く謝罪の言葉を口にする。
仕事とはいえ、物腰柔らかく近づき、丁寧に声をかけ、乱暴に拒否されるうちに、自分がとてつもない嫌われ者に思えてくる。強い精神力が必要だったが、コート同様それも僕にはなかった。溜息(ためいき)をこらえ、じっと手のアンケート用紙を見る。
誰に声をかけようか、と見定めるつもりで通行人に目を向けた。誰も彼もが自分を避けていくように見える。群れるペンギンのようにたくさんいるにもかかわらず誰も彼もが素通りだ。
藤間(ふじま)さんのことを思い出した。優秀なシステム管理者で、妻に逃げられたことで動揺した、かの有名な藤間さんだ。一昨日の例の騒動の後、心労のためなのか藤間さんは、めったに取らないはずの有給休暇を取り、休んでいた。奥さんの帰ってこない家で眠っているほうが、身体(からだ)に悪いんじゃなかろうかと思わないでもなかったが、とにかく僕は、その藤間さんの分まで頑張らなくては、とそんな気分だった。
後ろで、わっと大きな声がした。振り返る。駅の構内に人だかりができていた。二十人ほどだろうか、会社員たちが、僕には背中を向ける形で立っている。彼らの正面には、少し見上げた角度の場所に、大きめの画面があった。
ボクシングだ。
今晩、日本人ボクサーが、ヘビー級のタイトルマッチをやるのだった。以前からずっと待ち望まれていた一戦で、社内でも生中継を観(み)たいがあまり、いそいそと退社する者がいた。そういえば、課長もそうだったんじゃないか。
中継を眺める人だかりが、駅の中にある。外にいる僕の場所からは、画面の一部しか見えなかったが、試合ははじまっていないようだとは窺(うかが)い知れた。
それから二十分、僕は十人ほどに声をかけたが、一人にも相手にされず、ますます落ち込みは酷(ひど)くなっていく。丁寧なナンパ師だと警戒されているのか、もしくは、怪しい商品勧誘だと思われているのか、どちらにせよ声をかけどもかけども、誰も協力してくれない。
正面から歩いてきた彼女は小柄とも大柄とも言えない体格だった。髪を上げ、束ねているのが似合っていたが、服装はといえば地味な灰色のスーツで、俯(うつむ)き気味に歩いている。
自分の数メートル前までやってきたところで、「お忙しいところ、すみません」と呼び止めた。
「はい?」彼女が立ち止まってくれたことにほっとしつつ、アンケート依頼の趣旨と自分の会社の説明を素早く話す。逃げないでください、逃げないでください、と内心では必死に唱えた。
一通り話を聞いたところで彼女は、「いいですよ」と顔を上げ、うなずいた。嬉々(きき)として、という雰囲気ではなかったが渋々な気配もなかった。
それまでの連敗続きの状態から、今回も当然、断られるものだと思い込んでいたので、「え、いいんですか?」と僕は聞き返した。
「え、だめですか?」
「いえ、本当にありがとうございます」
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