彼女がアンケート用紙に記入を行っている間、僕はただ立っていた。記入内容をじろじろ見るわけにはいかないし、世間話をするわけにもいかない。拒否ばかりされていた自分が、ようやく誰かに受け入れられた、そういった安堵(あんど)が身体を包んでいたのは確かで、肩に入っていた力が抜けた。
バインダーを持った彼女の手を見ていると、その親指を、手首のほうへ下がったあたりの肌に、「シャンプー」とマジックで書いてあるのが目に入り、特段、何かの感慨があったわけでもないが、思わず、「シャンプー」と僕は音読してしまう。
「あ」彼女は自分の手首を見て、「今日、安いんですよ。忘れないように」と小さい声で説明した。恥ずかしがるわけでもなく、淡々としていて、その様子が少し可笑(おか)しかった。
手首から目を逸(そ)らすと、今度は、彼女のバッグに視線が行く。
有名ブランドの大きなロゴがついていた。高いんだろうな、と思った。中には携帯電話が入っており、そのストラップに僕の見たこともない人形がぶら下がっている。アニメの登場人物なのだろうか、宇宙飛行士のできそこないのような、ぱっとしない造型で、こんなものが有名なキャラクターなのか、まさかね、と思っていたが、するとそこで、「この職業欄って」と彼女が用紙をこちらに向け、指差してきた。
「あ、曖昧(あいまい)な感じでいいです。会社員とか、学生とか」
「今、仕事を探してるんですけど」彼女は淡々と言い、自分の襟元(えりもと)を触った。その地味な上着は、面接を受けるために着たものかもしれなかった。ちらっと年齢欄を見やれば、僕と同じ歳(とし)が記されていたから、就職活動中の学生というわけではないのだろう。
「バイトとかしてますか?」
「フリーターって書いちゃって、いいんですか?」彼女が言う。
「ぜんぜん問題ありません」
彼女は、フリーター、としっかりとした字で書き、「はい」とこちらへバインダーを戻した。
僕は礼を言う。
「立ってる仕事って大変ですよね」彼女が慰めとも世間話ともつかない言葉を口にした。
「ですね」と僕は、不意打ちのあまり正直な思いを漏らしたが、すぐに、「もちろん、座りっぱなしもきっと大変だと思うけど」と付け足した。自分の仕事が一番大変だ、と考えるような人間は好きではなかった。
「ああ、ですね」
「です」
彼女は特に笑いもせず、かといってむっとしたわけでもなく、頭を軽く下げた。駅構内に入っていった。
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