織田一真はおそらく、自分の発言の意図を見失っていたのだろう、彼女の質問をあっさりと聞き流し、「あのさ、おまえの好きな女のタイプってどんなの?」と僕に顎を向ける。
急に質問を投げられ、たじろいだ。「どんなんだろ」
「俺が知るかよ」
「まあ、ちゃんとやることやって、普通に生活してる人がいい」
「やることやるって、エロいほうの話か」
「エロいほうの話を含めてもいいけどさ」半ば投げやりに僕は言う。どうして、そういう発想になるのだ。「仕事とか、家のこととか、そういうのだよ。愚痴を言わず、威張りもしない。それで、やるべきことをやる人って、いいじゃないか」
「外見は?」
「そりゃ、外見は可愛いほうがいい」
「自分を棚に上げてるよな」織田一真は遠慮ない。「身の程を知れ、身の程を」
「俺の友達に、身の程を超えて、いい女との交際に成功した奴(やつ)がいるからな。ディフェンスの穴を突くみたいにしてさ。しかも結婚までした。だから、俺にもそういう幸運があるんじゃないかって思ってるんだ」
ふーん、と織田一真は興味なさそうに首を揺すり、そんな奴がいるのか羨(うらやま)しいな、と言った。
「ママ」美緒ちゃんがそこで唐突に起きた。ぜんまい仕掛けで動きはじめたかのような、突然さだった。「トイレ」と半分瞼が下がったまま、立ち上がる。
「はいはい」織田由美はすぐにトイレへと、美緒ちゃんを連れて、歩いていく。僕はその様子を目で追う。来年、小学生になるとはいっても、夜のトイレが怖いのか。
不思議なものだな、とまた思う。
大学で最初に彼女を目撃した時、この女性はきっと、眩(まばゆ)いばかりの人生を送っていくんだろうな、と僕は思った。美しく性格が良い女性はきっとそうなんだろうと憧憬(しょうけい)すら感じながら、想像したのだ。こちらの勝手な思い込み、偏見に近かったが、とにかく、やっかみや皮肉はなく、そう思った。
その彼女が二十一歳で結婚し、今や六歳の娘と一歳三ヶ月の息子を抱え、旦那のエロDVDを片付けつつ、夜になれば子供のトイレに付き添って、「わたしも、久しぶりに飲みに行きたいものだ」と小さな望みを口にしているとは、信じがたかった。それが悪い、というわけではない。ただ、かなり意外だった。
「うん? どうかした?」居間に戻ってきた織田由美が、感慨深く眺める僕の視線に気づく。
「いや、俺たちの憧れだった、由美さんがもう、立派なママなんだな、と」
「憧れだったかどうか、立派かどうかも分かんないけどな」と織田一真が言ってくる。
「ひどいと思わない? こういう言い方」彼女が口を尖(とが)らせる。「この間なんてさ、わたし、財布落としちゃったんだよ。美緒を病院に連れていって、スーパー寄って、帰ってくる時にさ」
「大変だ」僕はすぐ、同情した。
「でしょ。でさ、一応、この人にも伝えてやろうと思って、メールで教えたんだけど、そうしたら、何て返事打ってきたと思う?」
「何て打ったっけ?」織田一真はすでに忘れているご様子だった。
「『何、落としてんの? 超うけるんだけど』だって」
「何それ」
織田一真は嬉(うれ)しそうに、声を立てた。「俺、面白えな。さすがだ」
「信じらんないよ」織田由美は眉を下げ、肩を上げた。
「信じらんないね」僕は本心から言った。
美緒ちゃんを隣の和室の布団に寝かしつけた後、織田由美が、「この間ね」と僕に話した。「子供を寝かしつけてた時にね、何か、風の音が聞こえてきたんだよ。うるさくはなくて、静かなんだけど、どこかから」
「何の話だよ」織田一真はあからさまに興味がなさそうだった。
「でも後で考えたら、あれってどっかで流れてた音楽なのかなあ、って気づいたんだよね。隣の部屋で、CDがかかってたとか」
「かもしれないね」それが?
「さっきの、出会いの話だけど、結局、出会いってそういうものかなあ、って今、思ったんだ」
「そういうものって、どういうもの」
「その時は何だか分からなくて、ただの風かなあ、と思ってたんだけど、後になって、分かるもの。ああ、思えば、あれがそもそもの出会いだったんだなあ、って。これが出会いだ、ってその瞬間に感じるんじゃなくて、後でね、思い返して、分かるもの」
「小さく聞こえてくる、夜の音楽みたいに?」
「そうそう」織田由美には、気の利いたことを言おう、という気負いのようなものはまるでなくて、だからなのか、すっと僕の耳に言葉が入ってくる。
「そういえば、小夜曲(さよきょく)ってなかったっけ? モーツァルトの」僕は言う。「あの、超有名な」
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク?」織田由美が言う。
ドイツ語で、「ある、小さな、夜の曲」だから、小夜曲、とはそのまんまじゃないか、と僕は子供の頃に思ったものだが、まあ、そのまんま翻訳しないでいったいどうするのだ、と言われればそりゃそうに違いなかった。
「あんな、能天気な曲、夜に聞こえたらうざくてしょうがねえじゃん」織田一真は口に出す。
「まあ、確かに」
* * *
※試し読みはここまで。続きはぜひ本作でお楽しみください。次回は文庫『アイネクライネナハトムジーク』収録の解説をお届けします。
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