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「アイネクライネナハトムジーク」絶賛上映中

2019.10.13 公開 ポスト

#9 思い返してわかるもの …“出会いがない”の呪縛がとける恋愛ストーリー伊坂幸太郎

織田一真はおそらく、自分の発言の意図を見失っていたのだろう、彼女の質問をあっさりと聞き流し、「あのさ、おまえの好きな女のタイプってどんなの?」と僕に顎を向ける。

急に質問を投げられ、たじろいだ。「どんなんだろ」

「俺が知るかよ」

「まあ、ちゃんとやることやって、普通に生活してる人がいい」

「やることやるって、エロいほうの話か」

「エロいほうの話を含めてもいいけどさ」半ば投げやりに僕は言う。どうして、そういう発想になるのだ。「仕事とか、家のこととか、そういうのだよ。愚痴を言わず、威張りもしない。それで、やるべきことをやる人って、いいじゃないか」

「外見は?」

「そりゃ、外見は可愛いほうがいい」

「自分を棚に上げてるよな」織田一真は遠慮ない。「身の程を知れ、身の程を」

「俺の友達に、身の程を超えて、いい女との交際に成功した奴(やつ)がいるからな。ディフェンスの穴を突くみたいにしてさ。しかも結婚までした。だから、俺にもそういう幸運があるんじゃないかって思ってるんだ」

ふーん、と織田一真は興味なさそうに首を揺すり、そんな奴がいるのか羨(うらやま)しいな、と言った。

「ママ」美緒ちゃんがそこで唐突に起きた。ぜんまい仕掛けで動きはじめたかのような、突然さだった。「トイレ」と半分瞼が下がったまま、立ち上がる。

「はいはい」織田由美はすぐにトイレへと、美緒ちゃんを連れて、歩いていく。僕はその様子を目で追う。来年、小学生になるとはいっても、夜のトイレが怖いのか。

不思議なものだな、とまた思う。

(写真:iStock.com/Viachesiav Peretiatko)

大学で最初に彼女を目撃した時、この女性はきっと、眩(まばゆ)いばかりの人生を送っていくんだろうな、と僕は思った。美しく性格が良い女性はきっとそうなんだろうと憧憬(しょうけい)すら感じながら、想像したのだ。こちらの勝手な思い込み、偏見に近かったが、とにかく、やっかみや皮肉はなく、そう思った。

その彼女が二十一歳で結婚し、今や六歳の娘と一歳三ヶ月の息子を抱え、旦那のエロDVDを片付けつつ、夜になれば子供のトイレに付き添って、「わたしも、久しぶりに飲みに行きたいものだ」と小さな望みを口にしているとは、信じがたかった。それが悪い、というわけではない。ただ、かなり意外だった。

「うん? どうかした?」居間に戻ってきた織田由美が、感慨深く眺める僕の視線に気づく。

「いや、俺たちの憧れだった、由美さんがもう、立派なママなんだな、と」

「憧れだったかどうか、立派かどうかも分かんないけどな」と織田一真が言ってくる。

「ひどいと思わない? こういう言い方」彼女が口を尖(とが)らせる。「この間なんてさ、わたし、財布落としちゃったんだよ。美緒を病院に連れていって、スーパー寄って、帰ってくる時にさ」

「大変だ」僕はすぐ、同情した。

「でしょ。でさ、一応、この人にも伝えてやろうと思って、メールで教えたんだけど、そうしたら、何て返事打ってきたと思う?」

「何て打ったっけ?」織田一真はすでに忘れているご様子だった。

「『何、落としてんの? 超うけるんだけど』だって」

「何それ」

織田一真は嬉(うれ)しそうに、声を立てた。「俺、面白えな。さすがだ」

「信じらんないよ」織田由美は眉を下げ、肩を上げた。

「信じらんないね」僕は本心から言った。

美緒ちゃんを隣の和室の布団に寝かしつけた後、織田由美が、「この間ね」と僕に話した。「子供を寝かしつけてた時にね、何か、風の音が聞こえてきたんだよ。うるさくはなくて、静かなんだけど、どこかから」

「何の話だよ」織田一真はあからさまに興味がなさそうだった。

「でも後で考えたら、あれってどっかで流れてた音楽なのかなあ、って気づいたんだよね。隣の部屋で、CDがかかってたとか」

「かもしれないね」それが?

「さっきの、出会いの話だけど、結局、出会いってそういうものかなあ、って今、思ったんだ」

「そういうものって、どういうもの」

「その時は何だか分からなくて、ただの風かなあ、と思ってたんだけど、後になって、分かるもの。ああ、思えば、あれがそもそもの出会いだったんだなあ、って。これが出会いだ、ってその瞬間に感じるんじゃなくて、後でね、思い返して、分かるもの」

「小さく聞こえてくる、夜の音楽みたいに?」

「そうそう」織田由美には、気の利いたことを言おう、という気負いのようなものはまるでなくて、だからなのか、すっと僕の耳に言葉が入ってくる。

「そういえば、小夜曲(さよきょく)ってなかったっけ? モーツァルトの」僕は言う。「あの、超有名な」

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク?」織田由美が言う。

ドイツ語で、「ある、小さな、夜の曲」だから、小夜曲、とはそのまんまじゃないか、と僕は子供の頃に思ったものだが、まあ、そのまんま翻訳しないでいったいどうするのだ、と言われればそりゃそうに違いなかった。

「あんな、能天気な曲、夜に聞こえたらうざくてしょうがねえじゃん」織田一真は口に出す。

「まあ、確かに」

 

*   *   *

 

※試し読みはここまで。続きはぜひ本作でお楽しみください。次回は文庫『アイネクライネナハトムジーク』収録の解説をお届けします。

関連書籍

伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』

妻に出て行かれたサラリーマン、声しか知らない相手に恋する美容師、元いじめっ子と再会してしまったOL……。人生は、いつも楽しいことばかりじゃない。でも、運転免許センターで、リビングで、駐輪場で、奇跡は起こる。情けなくも愛おしい登場人物たちが仕掛ける、不器用な駆け引きの数々。明日がきっと楽しくなる、魔法のような連作短編集。

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9月20日全国ロードショー!!

“出会いがない”というすべての人へ――10年の時を越えてつながる〈恋〉と〈出会い〉の物語

妻に出て行かれたサラリーマン、声しか知らない相手に恋する美容師、元いじめっ子と再会してしまったOL……。人生は、いつも楽しいことばかりじゃない。でも、運転免許センターで、リビングで、駐輪場で、奇跡は起こる。情けなくも愛おしい登場人物たちが仕掛ける、不器用な駆け引きの数々。明日がきっと楽しくなる、魔法のような連作短編集。

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伊坂幸太郎

1971年千葉県生まれ。2000年『オーデュボンの祈り』で、第五回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。04年『アヒルと鴨のコインロッカー』で第二十五回吉川英治文学新人賞、『死神の精度』で第五十七回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。08年『ゴールデンスランバー』で第五回本屋大賞と第二十一回山本周五郎賞、20年『逆ソクラテス』で第三十三回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『アイネクライネナハトムジーク』『フーガはユーガ』『シーソーモンスター』『クジラアタマの王様』『ペッパーズ・ゴースト』などがある。

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